藤子・F・不二雄ミュージアム · 二〇一一
藤子・F・不二雄こと藤本弘(1933〜1996)は、キャリアのほぼ全期間を川崎市で過ごした。東京のすぐ南西に接するこの郊外都市で、1969年に日本の現代文化の象徴となるマンガ・アニメ『ドラえもん』を生み出した。川崎市にはまた、2011年9月に約5万点の肉筆原画を収蔵した彼の記念館も開館した——5フロアの展示・キャラクターの等身大像が並ぶ庭園。SAKUGAARTがその全容を届ける。
藤子不二雄は1987年まで、藤本弘(1933〜1996)と安孫子素雄(1934〜2022)という二人のマンガ家が共同使用していたペンネームだ。二人は富山の小学校で出会い、10代から共同作業を始めた。1950年代に手塚治虫の誘いでトキワ荘に転居し、そこで初期の共作を育んだ。
1987年、30年以上のコラボレーションを経て作品を分離することにした。藤本は藤子・F・不二雄(中間の「F」が識別記号)となり、ドラえもん・パーマン・エスパー魔美・キテレツ大百科などの少年・児童向け作品を引き継いだ。安孫子は藤子不二雄Aとなり、忍者ハットリくん・まんが道などより暗めの・青年向けの作品を担当した。川崎市のミュージアムは藤本/藤子・F・不二雄のみを対象としており、コンビ全体ではない。
藤本は1960年代から多摩区に住み始め、1996年の死去まで暮らした。そこにアトリエを構え、職業生活のほぼすべてをこの地で送った。登戸周辺と多摩区の風景はドラえもんの想像力を養った——のび太の裏庭・川・コンクリートの土管が置かれた空き地は、1960〜70年代のこの土地の風景を認識できるほど忠実に翻案したものだ。
小学館(出版社)と家族の了解のもと川崎市がミュージアムの設立を決定した際、場所の選択は自明だった。2011年9月3日——藤本の命日(1996年9月23日)の20日前——に開館した。市はその最も著名な作家を取り戻した。
井上伸也が設計した建物は5層(1階+4フロア+屋上)に展開する。ルートは示されるが厳密に強制されるわけではない。入館時に音声ガイド(日本語・英語ともに優秀)が配布される(料金に含まれる)。1階:受付、音声ガイド受け取り。2階:藤本の生涯に関する常設展示、アトリエの再現、代表的な肉筆原画。
3階:シアターF(後述)・藤本作品の自由閲覧スペース・年に数回更新される企画展。屋上テラス:ドラえもん・のび太・パーマン・その他キャラクターの像が置かれた庭園、ピクニックスペース、多摩区の眺め。音声ガイドで時間をかけるなら、1.5〜2時間が目安。
外部空間は登場人物の銅像が点在する散策路として設計されている。複数の箇所にあるドラえもん等身大像は、のび太・しずか・スネ夫・ジャイアンと時に共演している。シリーズに登場する象徴的なコンクリートの土管が原形どおりに再現されている。神秘的なガジェット「どこでもドア」も等身大で再現され、写真撮影の名所となっている。
パーマンの像・21エモンの機関車など、藤本の知名度の低い作品の造形も庭内に散りばめられており、熱心なファンには嬉しいサプライズだ。子どもと懐かしさを持つ大人の双方に対して等しく語りかける展示設計——どちらかを見下すことなく。
3階の「Fシアター」では、このミュージアムのためだけに制作された短編アニメーションを上映している——配信・Blu-Ray・映画祭のいずれでも見ることができない作品だ。入館者はチケットとともに次の上映時間を受け取る。
このしくみはジブリ美術館(土星座)と近いが、異なる形をとっている。アニメーションスタジオが制作の一部を物理的な来館体験のために確保し、通常の商業流通から切り離すという論理は同じだ。ミュージアムはそうして他では見られない作品の唯一の保管者になる。
ミュージアムは時間枠制の完全予約制だ。特定の入場時間枠のチケットを事前に購入する。当日券の販売はない。公式サイトまたは提携先(日本ではLAWSONチケット)での予約が必要。繁忙期には数週間前にチケットが完売することも。
アクセスには登戸駅(小田急小田原線・JR南武線)を利用し、そこからミュージアムへの定期シャトルバスで約10分が便利。向ヶ丘遊園駅・宿河原駅から徒歩15〜20分という代替手段もある。SAKUGAARTからの定番の推奨として——来館前に必ず公式サイト(fujiko-museum.com)で確認すること。
本記事の内容は文化的・資料的・遺産的観点からのみ扱われており、いかなる価格・市場情報も含まない。訪問前に公式サイトで最新情報を確認すること。SAKUGAART、日本のアニメーションに特化した編集サイト。
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