プロデューサー ・ 監督 ・ スタジオぴえろ創設者 ・ 人物評伝
布川
郁司
布川 郁司 ・ 1947年2月11日 — 2022年12月25日 ・ 山形県酒田市
虫プロダクション ・ タツノコプロ ・ スタジオぴえろ 1979 → 2022 ・ 享年75
彼はサーカスを愛していた。彼はフランスの道化師の名を自身のスタジオに与えた。そして吉祥寺の一室から、日本のアニメーションにおいてもっとも影響力のある組織のひとつ ― 『魔法の天使クリィミーマミ』、『幽☆遊☆白書』、『NARUTO -ナルト-』、『BLEACH』を生み出した組織 ― を築き上げた。布川郁司は2022年のクリスマス当日に世を去った。あたかも、暦のなかでもっとも演劇的な日付を待ち続けていたかのように。
酒田 ― 仕立屋の息子、絵を愛する少年
布川郁司は1947年2月11日、日本海に面した山形県の港町酒田市に生まれた。家業は仕立屋 ― 布、裁断、形を扱う職人である。これは無関係ではない。生涯にわたり、布川は縫製がアニメーションと共有するあの可視的な細部、事物の外被への注意を持ち続けた。後年、スタジオぴえろの代表となった後も、制作中の作品のロゴやグラフィックを自ら調整している姿がしばしば目撃されている。
高校の美術部の顧問は彼に絵の道に進むことを勧める。彼は上京し、日本デザイナー学院に入学、1967年に卒業する。それはまさに、1963年の『鉄腕アトム』とともに始まった日本のテレビアニメ第一次バブルが萎み始めた年であった。先行きは不透明 ― だが布川は飛び込む。
虫プロからタツノコプロへ ― ジャンルの学校
布川は彩色担当として、テレビコーポレーション・オブ・ジャパン(現在のエイケン)の下請会社で、『宇宙少年ソラン』(1965-1967年)と『ロボタン』(1966-1968年)に参加することから始まる。中割を経て、『ロボタン』では原画を担当する。次いで虫プロダクション(手塚の世界、出崎と富野の学校)と円谷エンタープライズでフリーランスとして働き、1971年にタツノコプロに入社する。
当時のタツノコプロは創造性の頂点にあった。『新造人間キャシャーン』(1973年)、『タイムボカン』(1975-76年)、『ヤッターマン』(1977-79年)、『科学忍者隊ガッチャマンII』(1978-79年)。布川はそこで各話演出を務め、責任を重ね、若手演出家を育成する。そのうちの一人が押井守であった。
彼を後に規定することになる確信を育み始めるのも、このタツノコ時代である。すなわち、アニメは作家によって導かれる芸術でなければならず、制作条件は人間的に持続可能でなければならない、という確信である。70年代の産業的過熱、消耗的な週次の制作スケジュール、不十分な予算 ― そのすべてが、彼を静かに憤らせていた。
押井守との結びつき ― あまり知られていない逸話
フランス語圏の伝記ではほとんど触れられない事実がある。押井守が監督として最初の経験を積むのは、タツノコプロにおいて、布川の指導のもとなのである。ジョナサン・クレメンツは著書『Anime: A History』のなかで、押井が自らの語りの様式を見出すのを助けた指導者の一人として布川を挙げている。
押井はその後、創設時のスタジオぴえろに合流し、『ダロス』(1983年) ― 日本アニメ史上初のOAV(オリジナル・アニメーション・ビデオ)、テレビ放映を経ずに VHSで直接発売された作品 ― を監督する。これは商業モデルの革命であった。布川は『ダロス』の制作を引き受けることで、業界を変容させることになる形式を発明したのである。
押井はその後ほかの地平へと旅立つ(『うる星やつら』、『機動警察パトレイバー』、『攻殻機動隊』) ― だがぴえろが制作したこの最初のOAVは、彼の経歴においても、スタジオの歴史においても、基礎を成す節目であり続けている。
創設 ― 一室、一つの構想、道化師の名
1978年、タツノコプロの創設者吉田竜夫がわずか45歳で逝去する。布川は衝撃を受ける。チャンスを与えてくれた男が去ったのである。タツノコの経営が変わる。すでに自身の生活費を賄うために酒田悠の筆名で他のスタジオの仕事も掛け持ちしていた布川は、独立を決意する。
女性アニメーターの神梨満男と鴇田弘子とともに、彼は吉祥寺の一室で集団を結成する。やがて演出家の鳥海永行とアニメーターの安濃高志が加わる。1979年5月、この集団は正式にスタジオぴえろとなる。
名前は個人的な情熱に由来する。布川はサーカスを愛していた。彼はコメディア・デラルテの登場人物 ― 白粉を塗ったメランコリックな道化師 ― の名であるフランス語のPierrot(ピエロ)を、自身のスタジオの名に選ぶ。ロゴは微笑む道化師の顔である。最初の発注はすぐに来た。学研が、スウェーデンの小説『ニルスのふしぎな旅』(1980年)の翻案を彼らに委ねたのである。スタジオぴえろは存在し始めた。
スタジオの創設時の使命は、合理的な制作スケジュールのもとで、アーティスト主導のアニメーションを制作することであった。
― Animation Magazine、布川郁司追悼記事、2023年1月
ぴえろ哲学 ― 長期の経済学
布川はアニメ業界のなかで型破りなプロデューサーであった。瞬間的な視聴率ではなく長期の経済学で思考していたのである。彼が幾度となく言葉にしてきた確信である。
ぴえろは『太陽の子エステバン』を制作したが、日本では完全な失敗だった。しかしフランスではあまりにも人気が高く、ほぼ誰もがその作品の存在を知っているほどだ。
― 布川郁司、Manga Tokyo インタビュー
話数を分解していくと、アニメーション制作費は下がっていく。それは美術や音楽といった要素を制作初期に作るのにとても費用がかかるからだ。一クール作品ならば、ちょうど美術が蓄積されてきた頃には全部終わってしまい、新企画でまた一からやり直さねばならない。新しい監督と新しいスタッフを集めるのには莫大な費用がかかる。
― 布川郁司、All the Anime、2022年
こうした論理こそが、90-2000年代にぴえろを少年向け長編シリーズへと向かわせた。『幽☆遊☆白書』(1992年、112話)、『NARUTO -ナルト-』(2002年、220話)、『BLEACH』(2004年、366話)。単に商業的な機会主義のためではなく ― 長尺の形式が初期投資を正当化し、安定したチームの維持を可能にしたからである。
『ダロス』 ― OAVの発明
1983年、布川は『ダロス』(押井守、全4話)の制作を引き受ける。VHSのみで直接販売 ― テレビ放映なし、劇場公開なし。これは史上初のOAVである。リスクは絶対的なものだった。商業的成功は控えめだったが、業界への影響は甚大であった。ぴえろは、アニメ業界が二十年にわたって大規模に使用することになる形式を発明したばかりだったのである。
『太陽の子エステバン』 ― 市場の反対教訓
1982-1983年、スタジオぴえろは DiC(フランス)と『太陽の子エステバン』(『Les Mystérieuses Cités d'Or』、邦題『太陽の子エステバン』)を共同制作した ― 流行になる以前の日仏共同制作である。日本では失敗。フランス、スペイン、イタリアでは文化現象。同シリーズは今日でも現地で世代の刻印となっている。布川はこの教訓を心に刻んだ。一つの作品は国内では大失敗でも世界的には勝利となり得る。アニメは日本だけのものではないのだ。
業界全体への献身 ― ぴえろを超えて
布川はぴえろの社主であるだけではなかった。彼はそのエネルギーの相当部分を、アニメ業界全体を構造化することに捧げた。
彼は日本動画協会(Association of Japanese Animations、略称AJA)の設立と発展に寄与した。同協会は杉並アニメーションミュージアムの運営、AnimeJapan(日本国経済産業省と共同)の開催、業界の現状に関する年次報告の発行を担っている。彼はその副会長を経て、2009年から2014年にかけて会長を務めた。
2015年、彼はアニメーター阿部記之、監督水野和則とともに、アニメ業界の各職種(プロデューサー、監督、アニメーター、企画者)の人材養成校NUROANI塾を共同設立する。彼は2022年に没するまで、ここで講義を行った。伝達は最期の息まで、最優先事項であった。
2019年3月、日本国文化庁は彼に文化庁長官表彰を授与した。日本の文化産業におけるもっとも権威ある叙勲のひとつであり、プロデューサーとしての全キャリア、およびアニメの国際的影響力への貢献に対する評価である。
2022年12月25日 ― クリスマスの日に逝く
布川郁司は2022年12月25日、急逝した。75歳であった。スタジオは12月26日、公式 Twitter アカウントでこの知らせを発表した。「彼のリーダーシップ、献身、情熱が深く惜しまれる。」
クリスマスの日に世を去ったことには、おそらく彼自身を喜ばせたであろう演劇的な何かがある ― コメディア・デラルテの登場人物の名を自身のスタジオに与えた人物にふさわしい。近親者によって私的な式典が執り行われた。スタジオぴえろは追悼の集まりを準備している。
追悼の言葉は世界中から寄せられた ― 彼の名を一度も耳にしたことがなく、しかし彼の制作した作品とともに育ったファンたちから。彼には偉大なプロデューサーのあのパラドックスがあった。莫大な影響力を持ちながら、一般大衆にはほとんど見えない存在であること。彼が育てた作家たち、発明した形式、設立した協会 ― そのすべてが彼なくして続いていく。
スタジオぴえろは2026年現在もなお活動を続けている。『BLEACH 千年血戦篇』(2022-2024年)は、彼が四十三年前に吉祥寺の一室で創設したスタジオの指揮のもとで制作されている。道化師は今もなお微笑んでいる。
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