Artisans des studios japonais

杉野昭夫

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杉野昭夫 ― ゴールデンコンビのもう一方の半身

キャラクターデザイナー ・ 作画監督 ・ 人物評伝

杉野
昭夫

杉野 昭夫 ・ 1944年生

北海道札幌 ・ 1944年9月19日 ・ 北見 ・ 東京

ゴールデンコンビ「出崎・杉野」と語られることは多い。しかし語られるのはほぼ常に出崎についてのみである。とはいえ、出崎時代を代表する記憶に残るキャラクターたち ― 矢吹丈、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ、コブラ、ブラック・ジャック ― その背後には、ひとつの手がある。杉野昭夫の手である。四十八年にわたるその描線、そしてフランス語圏の一般大衆にはほぼ無名のひとつの顔。

生年月日 1944年9月19日 北海道札幌市
育った地 北見 札幌近郊の小都市
デビュー 劇画 ― 雑誌『影』『街』 1961年
入社 虫プロダクション 1964年
所属スタジオ 虫プロ ・ マッドハウス ・ スタジオあんなぷる ・ 手塚プロ
盟友 出﨑統 ゴールデンコンビ 1963-2011年
師事 平田敏夫 ・ 村野守美
荒木伸吾の兄 荒木伸吾 『あしたのジョー』共同担当

— I —

札幌、劇画、貸本による修業

杉野昭夫は1944年9月19日、北海道の中心都市である札幌に生まれ、隣接する小都市北見 ― 東部平野に位置する集落 ― で育った。もうひとりの北海道出身者である小林七郎と同様、寒冷さと広大な開けた空間というこの地理は、おそらく彼の登場人物のなかに何か構造的なものを刻み込んだことだろう。耐え抜く肉体、押し殺された表情とその爆発である。

高校時代、彼は劇画 ― 50年代に手塚の児童的様式への反発として生まれた、大人向けのドラマティックな漫画 ― を志す。彼は自作の原稿を貸本漫画屋(漫画レンタル)の出版社に持ち込んだ。当時きわめて広く普及していた業態で、読者は数十円を払って専門店から一冊の単行本を借りるという仕組みであった。杉野は1961年から劇画の二誌 ― 『影』『街』 ― に短期間掲載される。

しかし貸本出版社は次々と廃業していく。杉野は生計を立てることに苦労する。独立した漫画家としての困窮 ― 同世代全体に共通する事情 ― が、彼の人生を変えることになる招請を受け入れる素地を作ったのである。

「掲載されたのはたった二冊の雑誌だけだった。その雑誌はどこかに仕舞ってある。誰も見たことがない。出崎は私の応募がどれも採用されなかったと信じ込んでいた ― 私はそれを誇らしげに否定したものだ。」

― 杉野昭夫、キネ旬インタビュー

— II —

虫プロダクション入社 ― すべてを変えた一通の手紙

1964年、監督兼アニメーターのモリ・マサキ ― 同じ貸本出版社で杉野の応募原稿を目にしたことがあった ― は、前年に『鉄腕アトム』を立ち上げたばかりの手塚治虫のスタジオ、虫プロダクションでの雇用の可能性を打診する手紙を彼に送る。

能力を証明するため、杉野は手塚治虫本人宛てに、独力で動かしたいくつかのシーケンス ― 走る馬、群衆の動き ― を準備して送る。彼自身が認めるところによれば、これらのテストは熟練したアニメーションというよりは劇画のイラストレーションに近いものだった。手塚はそれを吟味し、杉野には十分な潜在能力があると結論する。採用される。20歳の時であった。

動画による修業

正式なアニメーション教育を受けないまま、杉野は実践のなかで学ぶ。平田敏夫の原画に対する動画(中割)を担当する経験を、彼はもっとも凝縮された修業期と表現している。村野守美の下でも働く。厳格な師であり、頻繁に彼の作画を直したという。この二人 ― 平田と村野 ― は、生涯にわたり杉野にとって職人技の主要な参照点となる。

彼の成長は速い。『ジャングル大帝』では初期から原画マンとして参加し、続いて『新ジャングル大帝 進めレオ!』も担当する。1966年、『新ジャングル大帝』の第10話で作画監督に起用される ― 彼の初めての作画監督職である。同年、彼は荒木伸吾と出﨑統を含む数名の同僚とともにスタジオ・ジャガードを設立し、正式に独立する ― 日本のアニメーション史上、アニメーターによる初の独立アトリエである。だが虫プロとは契約ベースで仕事を続けた。

虫プロはそれ自体がひとつの学校であった。東映動画 ― ディズニーやフル・アニメーションの愛好者を優先的に採用していた ― とは対照的に、虫プロは元・漫画家を多く集めていた。動きを理解する以前に、静止した画像で物語を語る術を身につけた人々である。この共通の出自(出崎、杉野、富野、りんたろうはいずれもこの文化から来ている)が虫プロ世代に独自の語りのアプローチを与えることになる。彼らは動きを考える前にシークエンスを考えるのである。


— III —

出崎との出会い ― ゴールデンコンビ

出崎と杉野は1963年から虫プロですれ違っている。だが決定的な何かを出崎が認識するのは、アニメーターとしての杉野の才能を眺めながらのことだ。この領域で彼に勝つことは決してできない。この明察が、出崎を杉野がしないこと ― 演出、絵コンテ、全体の監督 ― へと専念させる。相補性は引き受けられた非対称から生まれたのである。

二人の正式な初コラボレーションは1970年、『あしたのジョー』で実現する。出崎が監督を、杉野が作画監督およびキャラクターデザイン(荒木伸吾、金山明博と共同)を担当する。四十年以上続く協働関係の始まりであった。

演出 ・ 絵コンテ ・ 構成

出﨑

出﨑 統 ・ 1943 — 2011

劇的な角度、絵葉書記憶、映画的なカット割り。空間、リズム、シーンの全体的な感情を構想する。

キャラクターデザイン ・ 作画監督

杉野 昭夫

杉野 昭夫 ・ 1944年生

身体の表現性、劇的解剖学、長期にわたる視覚的一貫性。登場人物、姿勢、即座の識別可能性を構想する。

日本ではこの協働関係は厳密な用語で指し示される。「ゴールデンコンビ」(ゴールデンコンビ)である。この言葉は価値と希少性の両方を語る ― これほど相補的でこれほど長期に及ぶ二人組は、世界のアニメーション史においてもごく稀にしか存在しない。映画音楽におけるスピルバーグ・ウィリアムズ、漫画におけるメビウス・ホドロフスキーが想起されよう。

「ゴールデンコンビをめぐる議論において、議論はほぼ常に出崎一人に集中する。出崎の成功にとって不可欠と認識されながら、杉野は奇妙にも陰の存在にとどまっている。」

― Karageko、『The Other Half of the Golden Combo』、2019年

本記事が修正を試みるのは、まさにこの不可視性なのである。


— IV —

マッドハウスと創造的独立

1972年、虫プロの経営破綻を予期した出崎は、丸山正雄、りんたろう、川尻善昭とともにマッドハウスを共同設立する。杉野は新スタジオの設立時から合流する。マッドハウスにおいて、彼は手塚の枠だけから解放される。同スタジオは手塚以外の漫画家の作品も手がけており、それが杉野のデザインの幅を広げることを可能にしたのである。

マッドハウス時代(1972-1980年)は様式の定着の時期である。杉野は出崎のもっとも野心的な作品 ― 『エースをねらえ!』(1973年)、『家なき子レミ』(1977年)、『宝島』(1978年)、そして何よりも『ベルサイユのばら』(1979-1980年、第19話以降) ― のキャラクターデザインに署名する。

1980年、杉野と出崎はマッドハウスを離れ、ともにスタジオあんなぷるを設立する。出崎、杉野、そしてマッドハウスから引き抜いた数名の原画マンからなる軽量な組織である。あんなぷるは80年代を通じて自律的な創造単位として機能し、他のスタジオとの協働でプロジェクトを制作した。同組織は同年代の末に活動を停止する。


— V —

杉野の作風 ― 五つの特徴

杉野のスタイルはひと目で識別可能である ― そしてまさにそれが彼の認知度の問題なのだ。あまりに作品そのものに溶け込み、立ち上がる劇的感情とあまりに一致しているため、自身に注意を引きつけない。彼は自らを忘れさせることで物語に奉仕する。これは弱さではない。偉大なキャラクターデザイナーの徴である。

顎と横顔 ― 劇的な解剖学

杉野の登場人物には独特の顎がある。成人男性では張り出した顎、女性では繊細で角張った顎。この特殊な顔の解剖は、人物にリミテッド・アニメーションを超える物理的存在感を与える。動かなくとも、彼らには重みがある。出崎がヒッチコック的な角度を杉野のキャラクターに用いるとき、緊張は倍加される ― 顔そのものが自身の劇を建築するのである。

光のもとで半ば閉じられた瞳 ― 視線の表現性

(小林七郎によってガッシュで描かれたフリーズフレームである)ハーモニー処理において、杉野の登場人物はしばしば横からの光のもと、半ば閉じた瞳で斜めを見つめる。視線のこの位置 ― 正面でもなく、逃れるのでもなく ― は強い感情的曖昧さを生み出す。それは諦念か?決意か?疲弊か?この不決定こそが、完全に計算された芸術的決定なのである。

劇的な髪型 ― 髪のなかに人物が延長する

杉野においては、髪は付属品ではなく性格の延長である。ブラック・ジャックの黒いマントには二色の髪が呼応し、オスカル・ド・ジャルジェの巻毛は鎧であり、矢吹丈の反抗的な髪の毛束は彼の不羈な本性を表現する。もっとも静的なシーケンスにおいても、髪は動く ― 杉野はそれを各シーンにおける副次的な登場人物として扱うのである。

原作への忠実さ ― 解消なき翻案

杉野は既存のデザイン(原作漫画)を、自らの印を残しながらも顕著な忠実さをもって翻案する。彼版の丈(ちばてつや)、コブラ(寺沢武一)、ブラック・ジャック(手塚治虫)は原作漫画のファンには認識可能でありながら ― 同時にひと目で杉野作品と識別できる。この二重の帰属は稀な技術的離れ業である。原作のファンと翻案者の様式の愛好者の双方を満足させる翻案を実現することなのだから。

身体の運動性 ― 物語としての姿勢

杉野のスポーツ・アクション系の登場人物(リングの上の矢吹丈、テニスコートの岡ひろみ)は常に動いている解剖を持つ。緊張した筋肉、つま先に移された重心、肩の張り。休止状態にあってさえ、彼らは跳ねる準備ができているように見える。動きのなかにある身体へのこの注意 ― 一枚の絵ですべてを語ることを要求する劇画修業から受け継いだもの ― は、70年代のテレビアニメに類を見ない物理的存在感を彼の登場人物に与えている。

彼の翻案は原作漫画に忠実でありながら、ひと目で杉野作品と識別できる。この二重の帰属こそが、稀な技術的離れ業なのである。

— VI —

主要作品

『あしたのジョー』(1970-1971年) ― 啓示

最初の正式な大型コラボレーションである。杉野はキャラクターデザイン(荒木伸吾、金山明博と共同)を担当し、国民的現象となるシリーズの作画を監督する。彼版の矢吹丈 ― 斧で刻まれたような顔つきの不良少年、額にかかる反抗的な前髪、眉骨の影の下の黒い瞳 ― は、日本アニメ史上もっとも識別可能なデザインのひとつである。四十年経った今も、そのシルエットは東京の街路でTシャツに掲げられている。

重要な技術的細部:『あしたのジョー』において、杉野はデザインだけでなく作画監督も担当する。すなわちすべての話数にわたるすべての原画マンの絵の視覚的一貫性を保証する役割である。週刊ペースで制作される79話のシリーズで、数十人の異なる協力者を抱えた状態でのこれは、途方もない監督業である。

『ベルサイユのばら』(1979-1980年) ― 頂点

このシリーズは出崎も杉野も加わらずに開始する。出崎が第19話から演出を引き継ぐとき、彼は杉野を伴って来る。杉野は第19話以降のキャラクターデザインを全面的に描き直す ― 登場人物たちはシリーズ中盤で目に見えて様式を変えており、注意深いファンは今でもそれを識別できる。

王室親衛隊の女性士官・オスカル・ド・ジャルジェの彼版は、絶対的な象徴となった。流れ落ちる金髪、高い頬骨、わずかに吊り上がった緑の瞳、登場人物の脆さに常に対立する軍人的な姿勢 ― すべてが、アニメを超越して文化的原型となる人物像に貢献している。『ベルサイユのばら』は、2026年現在も、日本でもっとも頻繁に再版・再展示されるアニメ作品のひとつであり続けており、オスカルのための杉野のオリジナルのキャラクター設定資料は、コレクター市場でもっとも探されている資料のひとつである。

『スペースコブラ』(1982年) ― 多面性

コブラ』とともに、杉野は様式的可塑性を示してみせる。寺沢武一の主人公は丈やオスカルの正反対である。無頓着な伊達男、サイキ駆動の腕の銃、絶えざるユーモア。杉野は寺沢のデザインを彼自身の文法 ― 身体はより運動的に、顔はより彫塑的に ― へと引き寄せながら、原作のアウトロー精神を裏切ることなく翻案する。同シリーズはまた、大人向けSFの域で、彼のもっとも官能的な女性デザインを導入する。

『ブラック・ジャック』OVA(1993-2000年) ― 円熟の作品

1993年から、杉野と出崎は手塚の医療シリーズを10本のOVAとして翻案する。これは二人最後の大型コラボレーションであり、おそらく技術的にもっとも完成度の高いものである ― OVAという媒体がテレビシリーズより寛容な納期を許すからだ。杉野のブラック・ジャック(大きな黒いシルエット、二色の髪、傷跡、冷たい眼差し)は今日、人物の参照版である ― ファンが原作漫画より先に、また現代のあらゆるデジタル再版より先に、体系的に挙げる版なのだ。

『ブラック・ジャック』のOVAは、出崎・杉野コラボレーションの技術的到達点であり続けている。出崎の各カッティングは杉野の登場人物の固有性を増幅させ ― 杉野の各登場人物は出崎に彼のカットに値する主題を提供するのである。

― Manga News、杉野昭夫プロフィール

— VII —

手塚への回帰 ― 円環を閉じる

90年代初頭から、杉野は手塚プロダクション ― 手塚が1968年に設立し、彼が1989年に没した後も存続するスタジオ ― のために定期的に仕事をするようになる。原点への回帰には忠誠の身振りのようなものがある。1964年に杉野を採用したのは手塚その人だったのだ。粗削りなアニメーションのテストにもかかわらず。杉野はこのスタジオで職人技を学んだ。彼はその遺産を保全するために戻ってくるのである。

彼は映画『ジャングル大帝』(1997年) ― 手塚最初の大成功のリメイク ― に寄与し、何よりも手塚プロが制作するブラック・ジャックフランチャイズの複数のエントリー、すなわち長期のOVAシリーズ(1993-2011年)、映画『ブラック・ジャック 劇場版』(1996年)、『ブラック・ジャック21』(TV、2006年)、『ブラック・ジャック Final』(OVA)に貢献する。これらの企画において、彼はキャラクターデザイナーと作画監督の職を同時に担う ― 視覚的一貫性に対する全面的な制御である。

手塚プロでのこの後期はjugiの本質的な何かを明らかにする。彼は学んだ世界から決して離れなかったのである。虫プロ(1964年)から手塚プロ(90年代-2000年代)まで、マッドハウス、スタジオあんなぷる、独立した諸プロジェクトを経由しながら、彼は手塚の遺産との絶え間ない結びつきを維持してきた ― あたかも1964年の認知(「お前には十分な潜在能力がある」)が、貫くべき約束として残り続けていたかのように。


— VIII —

選別フィルモグラフィー

Anime News Network 上で60作品以上が文書化されている。以下は正確な役職を伴うもっとも重要な作品である。

作品 役職 監督
1963 鉄腕アトム(TV) 動画 手塚 / 出崎(各話)
1965-66 ジャングル大帝(TV) 第10話 作画監督 手塚治虫
1969 千夜一夜物語(劇場版) 美術 山本暎一
1970-71 あしたのジョー(TV) キャラデザ ・ 作画監督 出崎統
1973-74 エースをねらえ!(TV) 作画監督 出崎統
1975 ラ・セーヌの星(TV) キャラデザ 初の公式クレジット 富野由悠季
1975 ガンバの冒険(TV) 作画監督 出崎統
1976 大空魔竜ガイキング(TV) キャラデザ ・ 原案 勝間田具治
1977-78 家なき子レミ キャラデザ ・ 作画監督 出崎統
1978-79 宝島 キャラデザ ・ 作画監督 出崎統
1979-80 ベルサイユのばら(TV、第19話以降) キャラデザ ・ 作画監督 出崎統
1980 あしたのジョー2(TV) キャラデザ ・ 作画監督 出崎統
1982-83 スペースコブラ(TV) キャラデザ ・ 作画監督(第1-31話) 出崎統
1983 キャッツ・アイ(TV 第1期) キャラデザ 竹内啓雄
1983 ゴルゴ13(劇場版) キャラデザ ・ 作画監督 出崎統
1986 11人いる!(劇場版) キャラデザ 出崎哲
1991-92 おにいさまへ…(TV) キャラデザ ・ 作画監督 出崎統
1993-2000 ブラック・ジャック(OVA — 全10話) キャラデザ ・ 作画監督 出崎統
1996 ブラック・ジャック 劇場版 キャラデザ ・ 作画監修 出崎統
1997 ジャングル大帝(劇場版) キャラデザ ・ 作画監督 竹内啓雄
2004 劇場版 エースをねらえ!(リメイク) キャラデザ ・ 作画監督 出崎統
2006 ブラック・ジャック21(TV) キャラデザ ・ 作画監督(第4・9・15話) 森脇真琴
2009 源氏物語千年紀 Genji(TV) キャラデザ ・ 総作画監督 出崎統

— IX —

見えざる遺産

杉野の地位には深くパラドキシカルなものがある。彼は何千万もの視聴者が愛し、涙し、何年にもわたって追いかけた登場人物 ― 矢吹丈、オスカル・ド・ジャルジェ、コブラ、レミ、岡ひろみ、ブラック・ジャック ― を描いてきた。それでいて彼の名は一度も発音されることはない。テレビアニメのキャラクターデザイナーという条件である。彼は愛着を可能にし、感情の条件を創り、自らの被造物の背後に消えるのだ。

とはいえ二次市場での彼の評価は相当なものである。『ベルサイユのばら』や『あしたのジョー2』に署名されたキャラクター設定資料(設定シート)は、日本および欧州のコレクターがもっとも探し求める作品のひとつである。彼のブラック・ジャックOVAでの原画(キーアニメーション)は、見つかったときには、まんだらけやオークションで重要な水準に達する。

初期クレジットの年譜

1961年 劇画雑誌『影』『街』での初掲載
1964年 モリ・マサキの招きで虫プロダクションに入社。『鉄腕アトム』で初の動画担当
1965-66年 ジャングル大帝』の原画マン。第2期第10話で初の作画監督
1966年 荒木伸吾、出﨑統とスタジオ・ジャガードを設立 ― 日本のアニメーター初の独立アトリエ
1970年 出崎との初の正式なコラボレーション:『あしたのジョー』 ― キャラクターデザインと作画監督
1972年 出崎、丸山、りんたろう、川尻とマッドハウス共同設立
1975年 キャラクターデザイナーとしての初の公式クレジット:『ラ・セーヌの星』(富野)
1980年 マッドハウスを離れる。出崎とスタジオあんなぷる共同設立
1993年 ブラック・ジャック』OVAシリーズ開始 ― 二人の最後の大型コラボレーション
2011年 4月17日、出崎逝去。48年間続いたゴールデンコンビの終焉
2010年代以降 手塚プロダクションで仕事を続け、断続的な寄与(『どろろ』2019年で原画担当)
オスカル・ド・ジャルジェの半ば閉じた瞳を、矢吹丈の引き締まった顎を、ブラック・ジャックの黒いマントのシルエットを眺めるたび ― それは杉野である。それと知られていようと、知られていまいと。

なぜ彼は無名のままなのか ― そしてなぜそれが変わりつつあるか

欧米における杉野の無名さは、いくつかの構造的要因に起因する。キャラクターデザイナーはアニメーションの一般的認識において従属的な職業である ― フランスでは監督の名が体系的に押し出される(宮崎、出崎、幾原)のに対し、キャラクターデザイナーは陰にとどまる。さらに杉野は2010年代半ばまで非常に少ない公開インタビューしか応じてこなかった ― 彼の控え目さは彼の職業的人格そのものなのである。

状況を変えつつあるもの:アニメ消費の新たな様式である。ANN上でクレジットを調べ、SNSで設定や原画を眺め、専門のアートブックを購入することに慣れた世代は、自然にキャラクターデザイナーへの注意が深い。複数の出崎作品(『あしたのジョー2』、『ベルサイユのばら』、『ブラック・ジャック』OVA)のBlu-ray 4K再発売は、VHSやDVDでは可能でなかった解像度のもとで、杉野のデザインの精密さを再発見することを可能にした。まんだらけや X(旧Twitter)でのオリジナル設定資料の収集と流通もまた、彼の仕事を可視化することに貢献している。

杉野は健在である。1944年生まれの彼は今日81歳である。彼は断続的に作品に貢献し続けている ― 『どろろ』(2019年)での原画は知られている最後のクレジットのひとつである。彼の作品は閲覧可能であり、彼の名は正しく引用され始めている。ちょうどよい時であった。


SAKUGAART ・ 作家評伝 杉野 昭夫 ・ 杉野昭夫 ・ 1944年生
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