美術監督 ・ スタジオジブリ ・ フリーランス ・ 人物評伝
男鹿
和雄
男鹿和雄 ・ 1952年2月29日生 ・ 秋田 ・ 小林プロ 1972年 ・ ジブリ 1988年 ・ 独立 1994年
小林プロダクション 1972年 → スタジオジブリ 1988-1994年 → フリーランス 1994年 → 現在
彼は2月29日に生まれた。日本の北、亜寒帯の森のなかで育った秋田の人である。そしてこの記憶こそ ― 下草の密度、冬の朝の低い光、大樹のなかの沈黙の重み ― 彼は『となりのトトロ』の背景のなかに置いたのだ。1988年以来、男鹿和雄のように自然を描く者は他にいない。誰一人として。
秋田 ― 礎となる風土
男鹿和雄は1952年2月29日 ― インタビューで生涯にわたり暦のいたずらとして繰り返される日付 ― に、本州北部・秋田県、現在の大仙市三本扇に生まれる。秋田は山岳、密林、水田、酒の地方である。粗野で都市化の進まない東北 ― そこでは自然は装飾ではなく、生きものとして空間を占有する存在である。
高校卒業後、男鹿はデザイン専門学校に入学するが一年で中退する。「絵を描くのが好きな人」を募集する求人広告に応じる。1972年、彼は小林プロダクションに入社する。最初の作品は『柏餅もっく』、続いてすぐに『ど根性ガエル』(1972年、出崎)。20歳、小林七郎と水谷利春の指導下で学び始める。
彼は『家なき子レミ』(1977年)のために小林プロに戻る。小倉はそのインタビューで、水谷と男鹿が一度別れていたが、この大企画のために招かれて戻ってきたと語る。「男鹿さんは東京で他のことをしに行っていたのです。だが誰かが、大きな企画があるから戻るよう彼を説得した。」
方法論 ― 24色、30分、そして本質
男鹿はニッカー絵具のポスターカラーを使う。学校工作向けに大きな容器で安価に売られる、日本製の不透明水彩絵具の銘柄である。彼は約24色 ― セルリアンブルー、オリーブグリーン、いくつかの黄土色と褐色 ― を使う。何も洗練されていない。重要なのは道具ではなく、その用い方なのである。
時々、アニメ業界以外の人から、どんな絵具を使っているのかと尋ねられます。それがポスターカラーだと答えると、ほとんどの人は驚きます。
― 男鹿和雄、『男鹿和雄画集』(徳間書店、1996年)インタビュー
方法論は単純で容赦ない。紙が乾く前に下塗り(地塗り)を施す。使える時間は30分から最大1時間。本質は一気に置かれねばならない。悪い下塗りは絵全体を台無しにする。素早く、強迫的で、安全網はない。
もうひとりのジブリ美術監督・田中直哉は、男鹿の方法の本質をこう描写する。
これは自然主義的な効果ではない。彼はシーンの重要な要素の本質を抽出する。それを増幅して画面を豊かにする。これが生み出すのは、風景の変容である ― 馴染みあるものから既視感のあるもののように見えるものへと、移り変わるのだ。
― 田中直哉、Animation Obsessive 引用、2022年11月
男鹿自身が用いる言葉。彼は「遊ぶ」(あそぶ)のだ。背景は写真化された装飾の忠実な再現ではない ― それは蒸留である。重要な細部は増幅され、雑音は除去される。男鹿が森を描くとき、それは写実的な森ではない。それは森の観念 ― 三十年間にわたる秋田の森の眺めによって濾過された森なのである。
宮崎からの呼びかけ ― 当初の固辞、そして教訓
1987年、宮崎は『となりのトトロ』の美術監督を直接男鹿に打診する。男鹿は躊躇する ― マッドハウスで企画を引き受けたばかりで、約束を反故にしたくない。彼を解放したのはマッドハウス創設者の丸山正雄であった。
「やりたいことがあるなら、やった方がいい。」
― 丸山正雄から男鹿和雄へ、1987年
男鹿は引き受ける。最初の背景画が宮崎に納品される。反応は直截で乾いていた。
「これが男鹿さんの水準ですか?」
― 宮崎駿から男鹿和雄へ、1987-88年
男鹿は衝撃を受ける。この一言を真に受ける。この瞬間から彼は仕事に対する関係を変える ― 技術的に正しいものではなく、自分にできる最良のものを納める。彼は後にこう述懐する。「具体的に考えたことはなかったけれど、本当はこういう仕事がしたかったのだ。あの時に宮崎さんに出会えてよかった。」
ジブリ時代 ― 35年の忠誠
『となりのトトロ』(1988年)から『君たちはどう生きるか』(2023年、いくつかの背景に貢献)まで、男鹿は三十五年以上にわたってジブリのために描いてきた。1994年にスタジオの正社員身分を離れフリーランスとなる ― しかしジブリのためには契約ベースで、長編作品や特定のシーケンスのために働き続ける。
『もののけ姫』(1997年)では、シシ神 ― 動物たちの神、原始的自然の化身 ― の森を描く。宮崎は深く、急峻で、恐ろしい森を求めていた。男鹿は秋田の記憶から汲み出す。「シシ神の森は深く、急峻で、恐ろしい。戦いが終わり、シシ神の怒りが鎮まった時、荒廃した土地に緑が戻ってくる。そこに咲く花は、秋田の初夏の風景を歩いた時のように鮮やかなのだ。」
男鹿は、誰にも求められず、画面が数秒しか映さないようなことが多い個人的な細部を背景に紛れ込ませる。『千と千尋の神隠し』のあるシーンで、2007年のMoT記録映像のなかで微笑みながら「ただ楽しかったから置いたんですよ」と説明する細部を画面の隅に描き込んでいる。この過剰 ― この魂の余剰 ― が、彼の背景を腕のいい技術者のそれと区別するのである。
高畑勲との関係 ― もうひとつの側面
男鹿はしばしば宮崎と結びつけて語られるが、高畑勲との関係はおそらく芸術的にもっとも要求の厳しいものだろう。高畑は『おもひでぽろぽろ』(1991年)のために男鹿を選んだ。彼が東北 ― 映画の故郷であり、山形の紅花畑は男鹿が身体で知っている風景である ― で育ったがゆえに、まさにそれゆえなのだ。『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)では、彼が当時居住していた多摩地区を描く ― 映画が次第にコンクリートで覆われていくのを見届ける郊外の丘陵地である。ジブリ作品『男鹿の描く自然』、高畑自身がナレーションを担当した記録映像は、この共犯関係を証言している。
『かぐや姫の物語』(高畑、2013年)は二人の最後の大型コラボレーションとなる。墨と水彩で、意図的に古拙な様式で全編が描かれたこの映画は、男鹿に以前の作品のものとはまったく異なるパレットを要求する。61歳の彼は、自身の流派を裏切ることなく適応する。
東京都現代美術館回顧展(2007年) ― 美術館による聖別
2007年7月21日から9月30日まで、東京都現代美術館(MoT)は『ジブリの絵職人 男鹿和雄展 ― トトロの森を描いた人。』を開催する。600点の作品が展示される ― 彼のキャリアの全容である。日本テレビは展覧会の完全な記録映像を放送し、DVD・Blu-rayで頒布される。展覧会はその後、2010年2月まで日本全国を巡回する。
これは異例の評価である。アニメーション背景画家 ― 日本の職人の伝統に属する職人 ― が、現代美術館でひとりの造形作家と同等の資格で展示される。長らく不可視だったアニメ背景画が、その本質において ― 二十世紀の主要な芸術実践のひとつとして ― 認知され始めたしるしなのである。
2015年以降、男鹿はでほぎゃらりーの顧問を務める。ジブリの元・背景画家たちが設立した、アナログ実践を継承するスタジオである。彼は小林学派(70年代)、ジブリ時代(1988-2013年)、そして次世代を結ぶ生きた連環なのだ。
背景は、それを描いた絵描きだけの創造物ではありません。それは要請に応えるために作られたものなのです。背景は絵描きの内面世界を表現するものではないのです。
― 男鹿和雄、日本テレビ / MoT 記録映像、2007年
この謙遜は本物 ― そして字義通り受け取ることは不可能なのである。男鹿の森はどこからともなく来るのではない。それは秋田から来るのだ。
選別フィルモグラフィー
| 年 | 作品 | 役職 |
|---|---|---|
| 1972 | 柏餅もっく / ど根性ガエル | 最初の背景 |
| 1977 | 家なき子レミ(小林プロ) | 背景画家 |
| 1988 | 火垂るの墓 | 背景画家 |
| 1988 | となりのトトロ | 美術監督 ★ ― ジブリ入社 |
| 1989 | 魔女の宅急便 | 背景画家 |
| 1991 | おもひでぽろぽろ | 美術監督 ★ |
| 1992 | 紅の豚 | 背景画家 |
| 1994 | 平成狸合戦ぽんぽこ | 美術監督 ★ ― ジブリ社員退社 |
| 1995 | 耳をすませば | 情景デザイン |
| 1997 | もののけ姫 | 美術監督 ★★ |
| 2001 | 千と千尋の神隠し | 背景(オープニング) |
| 2004 | ハウルの動く城 | 背景(オープニング) |
| 2006 | 種山ヶ原の夜 | 監督 ★ |
| 2007 | 東京都現代美術館回顧展 ― 600点 | 回顧展 |
| 2008 | 崖の上のポニョ | 背景画家 |
| 2013 | かぐや姫の物語 | 美術監督 |
| 2015 | でほぎゃらりー ― 美術顧問 | 継承 |
| 2023 | 君たちはどう生きるか | 背景画家 |
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