日本スタジオの職人たち

勝間田具治の肖像

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勝間田具治
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勝間田具治 — スーパーロボットの設計者 | SAKUGAART

演出家 · 東映動画 · 作り手の肖像

勝間田
具治

Tomoharu Katsumata · 1938年2月4日生まれ · 静岡県下田市出身

東映京都撮影所(実写)1960年 → 東映動画 1963年 → 最終確認クレジット 2008年 · 別名:北島光昭

京都の時代劇の巨匠たちのもとで、白黒の剣劇映画の助監督として出発した。やがて『UFOロボ グレンダイザー』のチーフディレクターを務め、『わが青春のアルカディア』を監督し、『北斗の拳』や『聖闘士星矢』でも演出を手がけることになる。主に東映という一つのスタジオで重ねた長いキャリアは、1970〜80年代のフランスで育った世代の想像力を形づくった作品群のほとんどに及んでいる。

生年1938年2月4日 静岡県下田市
学歴日本大学芸術学部 1960年卒業
出発点東映京都撮影所 時代劇の助監督・1960年
スタジオ東映動画/東映アニメーション 1963年〜
別名北島光昭 AniDBに記録された名義
受賞東京アニメアワードフェスティバル 功労賞・2011年
協働者永井豪 · 松本零士 · 舛田利雄
最終クレジット2008年 確認できる範囲で

— I —

下田 — 時代劇からアニメーションへ

勝間田具治は1938年2月4日、静岡県の伊豆半島にある港町下田に生まれた。1854年にペリー提督の艦隊が来航し、日本が対外通商へと開かれる舞台となった歴史の町である。冒険と探検と抵抗の物語を語り続けることになる人物にとって、この土地の記憶は決して偶然ではない。

1960年に日本大学芸術学部を卒業すると、すぐに映画界へ入った。ただし最初は実写の世界である。東映の京都撮影所に助監督として加わり、マキノ雅弘、工藤栄一、田坂具隆といった時代劇の名匠たちのもとで修業を積んだ。日本の歴史劇の王道である時代劇での日々は、アクションのリズム、画面構成、感情の高まりといった確かな演出の基礎を彼に授けた。1970年代のテレビアニメが必要とすることになる要素のすべてである。

1963年頃、東映のアニメーション部門である東映動画(東京)に移り、当初は企画や補佐の仕事に就いた。その後、『狼少年ケン』(1963年)、『サイボーグ009』(1968年)、『タイガーマスク』(1970年)など、東映初期の大型テレビシリーズで各話の演出を担当する。ここで彼は、テンポを崩さず、アクション場面にスケールを与え、感情の流れを決して見失わない演出家としての評価を築いていった。


— II —

永井豪の時代 — スーパーロボットの設計者

1972年、勝間田は永井豪の漫画を初めて本格的にテレビアニメ化した『デビルマン』の演出を担う。永井とそのダイナミックプロとの協働はおよそ十年に及び、勝間田のキャリアで最も実り豊かな時期を形づくった。

同じ1972年には、パイロットが内部に乗り込んで操縦する巨大ロボットでジャンルに革命を起こした『マジンガーZ』の各話演出も手がけている。1973年には『キューティーハニー』、続いて『グレートマジンガー』(1974年)のシリーズ演出を担当した。勝間田と永井の組み合わせは、こう機能していた。永井が奔放な想像力と神話的な濃密さを持ち込み、勝間田が時代劇で培った映画的な厳密さ、すなわちリズム感、緊張の組み立て、アクションカットの無駄のなさをもたらしたのである。

『マジンガーZ対デビルマン』(1973年)

勝間田が演出した劇場作品『マジンガーZ対デビルマン』(1973年)は、アニメーション史上の興味深い存在である。日本のアニメにおける最初期のクロスオーバー映画として知られ、異なる美学を持つ二つの永井作品の世界を一本の中編映画に融合させた。複数のシリーズを組み合わせて観客層を広げるというクロスオーバーの発想は、今日では世界の文化産業のいたるところに見られる。勝間田は、マーベルより半世紀も前にそれを実践していたのである。


— III —

『UFOロボ グレンダイザー』(1975〜1977年)— フランスの衝撃

『UFOロボ グレンダイザー』

1975年10月5日、フジテレビで『UFOロボ グレンダイザー』の第1話が放映された。勝間田はチーフディレクターである。キャラクターデザインは小松原一男が最初の48話を、荒木伸吾が続く26話を担当し、シリーズは1977年2月27日まで全74話にわたって放映された。

日本では、『マジンガーZ』『グレートマジンガー』に続く永井作品三部作の三作目として、ほどほどの成功にとどまった。ところがフランスでは文化的な爆発となる。『ゴルドラック(Goldorak)』の題で1978年7月3日にアンテンヌ2で放映が始まると、たちまち社会現象となった。子どもたちはテレビの前に釘づけになり、校庭には必殺技の掛け声が響き渡り、玩具の売り上げは跳ね上がった。

勝間田はフランスでの反響の大きさに戸惑ったという。東映の通常の制作体制の中で手がけたシリーズが、地球の裏側で世代を象徴する現象になるとは予想していなかったのである。日本の専門誌が伝えたインタビューで、彼は「フランスでの受け入れられ方に驚いた」と語ったとされる(編集部注:出典未確認)。

フランスのグレンダイザー。アニメが海を越え、普遍的な文化現象になりうることを、世界の産業に初めて証明した日本のアニメーション作品である。

— IV —

松本零士 — 憂愁の宇宙叙事詩

1970年代の終わりから、勝間田は二つ目の大きな創作上の関係を築く。ロマンティックで憂いを帯びた宇宙を描く漫画家、松本零士との協働である。永井豪が肉体的な力強さ、カタルシスとしての暴力、悪ふざけのユーモアを体現していたとすれば、松本が体現するのはまったく別のものだった。無限の宇宙の孤独、郷愁、騎士道的な名誉、そして手の届かない女性たちの美しさである。

その前の1978年、勝間田はエドモンド・ハミルトンのSF小説を原作とする『キャプテン・フューチャー』のチーフディレクターを務めた。全52話のこのシリーズの成功は、スーパーロボットから探検型のSFへと移っても通用する勝間田の力量を裏づけた。

1982年、この時期の代表作が生まれる。キャプテンハーロックの若き日を描いた130分の長編『わが青春のアルカディア』である。作画監督に小松原一男を迎えたこの作品は、敗北、流浪、友情、そして生き延びることと名誉を守ることの選択を見つめた、野心的な物語となった。冒頭にはゲーテの言葉とされる一節、「人は誰しも人生の終わりに振り返り、自らの青春こそがアルカディアであったと思う」が掲げられているとされる。まるで自伝的な宣言のように響く言葉である。

また、1970〜80年代の宇宙アニメを代表するもう一つの大きな世界、ヤマトシリーズからも『ヤマトよ永遠に』(1980年)と『宇宙戦艦ヤマト 完結編』(1983年)を手がけている。


— V —

1980年代 — 東映の受注制作の黄金期

1980年代、勝間田は東映アニメーションで最も守備範囲が広く、最も信頼のおける演出家としての地位を確かなものにする。まったく異なるジャンルを、同じ職人的な確かさで次々と手がけていった。

『Dr.スランプ アラレちゃん』(1981年)

鳥山明による奇想天外なナンセンス・コメディであり、永井作品の巨大ロボットとは正反対の世界である。勝間田は各話の演出を担当し、どのような語り口にも適応できる力を示した。

『Dr.スランプ アラレちゃん』

『北斗の拳』(1984年)

武論尊と原哲夫の漫画を原作とするこのシリーズは、おそらくこの十年で最も暴力的な作品である。拳法の秘技が繰り出されるたびに肉体が弾け飛ぶ、核戦争後の世界を舞台にしたサバイバル劇だ。勝間田は各話の演出を担当した。シリーズは高い視聴率を記録し、1980年代の「大人向け少年アニメ」の美学を決定づけた。

『北斗の拳』

『アンデルセン童話 にんぎょ姫』(1975年)と童話作品

巨大ロボット作品の合間に、勝間田は1975年、長編『アンデルセン童話 にんぎょ姫』(68分、キャラクターデザイン:奥山玲子、荒木伸吾)を監督している。わずか数か月のうちにハードなメカものから子ども向けの童話へと移ってみせる柔軟さは、彼の仕事ぶりをよく表している。彼は高い意味での「受注の演出家」であり、どのような企画にも同じ水準の職業的な厳しさで応えることができたのである。


— VI —

『三国志』三部作(1992〜1994年)— 自らの作品として

1980年代の終わり、勝間田は実写映画の監督舛田利雄とともに、そのキャリアで最も野心的な企画に取り組む。中国の古典小説『三国志演義』を、三部作の劇場アニメーションとして映像化する試みである。

三作はそれぞれ1992年、1993年、1994年に公開された。第一作『三国志 第一部 英雄たちの夜明け』(1992年)は海外でも高く評価され、IMDbの利用者レビューには次のような言葉が寄せられている。

アニメーションによる歴史叙事詩がいかに作られるべきかを示す、ほぼ完璧な手本である。ディズニーの『ムーラン』(1998年)の作り手たちは、本格的な歴史題材を大画面でどう扱うべきかについて、この作品から多くを学べたはずだ。

— IMDb 利用者レビュー(『三国志』1992年)

これは東映の通常の制作の枠を超えた作品である。若年層向けの人気漫画の映像化ではなく、大人の観客に向けた戦争と政治の歴史物語だった。およそ三十年前に京都の時代劇で学んだすべてが、ここで最終的な成熟を迎えたのである。


— VII —

見えざる遺産 — すべてを撮った演出家

勝間田は、組織への忠誠によってほぼ全面的に定義される、まれな映像作家である。数十年にわたって主に東映という一つのスタジオで仕事を続け、その一貫性は世界の映画史を見渡しても例が少ない。競合への移籍も、作家としての自我の誇示もない。ただ受注した仕事を、卓越した水準で仕上げ続けた。

2011年、東京アニメアワードフェスティバルは彼に功労賞を贈った。日本のアニメーション史における彼の礎としての役割を、遅ればせながら明確に認めたものである。

彼の影響は様式的というより構造的である。出﨑統が一目でそれとわかる映像の文法を発明したのに対し、勝間田が築いたのは制作の標準だった。長期シリーズのテンポを保ち、アクションを組み立て、何十話にもわたって感情を配分しながら観客を離さない方法である。彼のもとで働いた何世代もの東映の演出家たちに受け継がれたこの標準は、出﨑統や宮崎駿の作品と同じくらい、1970〜80年代のアクションアニメのかたちを決めることに貢献した。

彼は時に北島光昭という別名を用いており、AniDBにその記録がある。名義を使い分けた理由は明らかになっていない。この別名の存在は、彼が明らかに関わった作品の公式クレジットに名前が見当たらない場合があることの説明にもなる。


— VIII —

主な作品歴

年作品担当備考
1960東映京都撮影所 — 時代劇助監督マキノ雅弘、工藤栄一、田坂具隆
1963『狼少年ケン』各話演出東映動画初のテレビシリーズ
1968『サイボーグ009』各話演出
1970『タイガーマスク』各話演出(19話)
1972『デビルマン』演出永井豪との最初の協働
1972〜74『マジンガーZ』各話演出
1973『マジンガーZ対デビルマン』(劇場)演出 ★最初期のアニメ・クロスオーバー映画
1973〜74『キューティーハニー』シリーズ演出永井豪 — 魔法少女ものの先駆
1974〜75『グレートマジンガー』シリーズ演出
1975『アンデルセン童話 にんぎょ姫』(劇場)監督 ★68分 — アンデルセン童話
1975〜77『UFOロボ グレンダイザー』チーフディレクター ★★全74話 — 世界的な現象
1976『大空魔竜ガイキング』演出
1977〜78『マグネロボ ガ・キーン』演出
1978〜79『キャプテン・フューチャー』チーフディレクター ★エドモンド・ハミルトン原作 — 古典SF
1980『ヤマトよ永遠に』(劇場)監督ヤマトシリーズ/松本零士
1981『Dr.スランプ アラレちゃん』各話演出鳥山明のコメディ
1982『わが青春のアルカディア』(劇場)監督 ★★ハーロック — 作画監督:小松原一男
1983『宇宙戦艦ヤマト 完結編』(劇場)監督ヤマトシリーズ
1984〜87『北斗の拳』各話演出大人向け少年アニメ — 核戦争後の世界
1992〜94『三国志』(劇場三部作)監督 ★★『三国志演義』
2005『聖闘士星矢 冥王ハーデス冥界編』(OVA)監督『聖闘士星矢』への回帰
2008『ニュー・アタッカーYOU』(ナック)監督確認できる最後のクレジット
2011東京アニメアワードフェスティバル功労賞遅ればせの公式な顕彰
SAKUGAART · 作り手の肖像 · 執筆:M. El Uasti 勝間田具治 · Tomoharu Katsumata · 1938年2月4日生まれ
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