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作家資料 · 1928-1989 · マンガ家 · アニメーション作家 · 医学博士
手塚
治虫
Osamu Tezuka · Astro Boy · Le Roi Léo · Phénix · Black Jack
昆虫を愛し、ディズニーに夢中になった大阪の医学生が、1946年から1989年までのあいだに、現代のストーリーマンガと日本のテレビアニメの礎を築いた。鉄腕アトムからブラック・ジャックまで、ジャングル大帝から火の鳥まで、手塚治虫は15万枚を超える原稿を描き、二つのスタジオを設立し、倒産を経験し、そして人生の後半にこそ最も野心的な作品を生み出した。本稿では、その歩み、スタジオ、作家としてのアニメーション、フランスと世界における受容、そして2028年の生誕100年を前にした遺産をたどる。
宝塚の昆虫少年(1928-1945)
手塚治虫は1928年11月3日、大阪府豊中市に3人兄弟の長男として生まれた。本名の「治」は、この日が明治天皇の誕生日「明治節」であったことにちなむ。5歳のとき、一家は兵庫県川辺郡小浜村(1954年に宝塚市となる)へ移り、上京するまでそこで暮らした。公式サイトは、マンガとアニメーションに親しむ開放的な家庭を描いている。母はマンガをおもちゃ代わりに買い与え、声に出して読み聞かせ、自伝によれば家にはマンガ本が200冊もたまったという。
宝塚歌劇の町、その華やかさと男役の文化は、のちの「リボンの騎士」に最も直接的な形で実を結ぶ。しかし少年時代を貫く情熱は昆虫であった。野山で昆虫採集に熱中し、本名に「虫」の字を加えて筆名「治虫」とした。1941年4月に大阪府立北野中学に入学すると、美術班と地歴班に所属し、マンガを描いて軍事教練の教官ににらまれたが、美術教師の岡島吉郎がよくかばってくれた。動物同好會を作り、手描きの絵入り会誌を発行し、1943年1月には「原色甲蟲圖譜」第一集を完成させている。
戦争は少年にも及んだ。1944年8月、仁川の健民修練所に入所するが、腕の水虫で出所。9月には勤労動員で淀川べりの大阪石綿に勤めた。1945年4月12日、大阪松竹座で国産初の長編アニメーション「桃太郎 海の神兵」を観て、いつかアニメーションを作ろうと決意したと、本人はたびたび語っている。同年3月28日に北野中学を卒業。公式サイトは、戦争が彼に教えたものを次のように記す。
「戦争体験から生命の尊さを深く知り、医学の道を志して後年医学博士になるが結局彼自身が一番望んだ職業を選んだ。」
— 手塚プロダクション公式サイト「プロフィール」より
大阪の医学生と「新宝島」(1945-1952)
1945年7月1日、手塚は大阪大学附属医学専門部(大阪帝国大学附属医学専門部)に入学する。その半年後の1946年1月1日、『少国民新聞』(のちの『毎日小学生新聞』)大阪版で、四コママンガ「マアチャンの日記帳」の連載が始まった(3月31日まで)。この学生は三つの生活を並行させた。医学、マンガ、そして学生劇団「学友座」での演劇である。山本有三やキングスレーの作品に出演し、ピアノ独奏も披露している。
1946年8月20日、関西マンガマンクラブの例会で、酒井七馬から単行本の依頼を受ける。1947年1月、酒井七馬原作の描き下ろし長編「新寶島」が刊行された。新聞・雑誌の流通を通らない大阪の赤本市場で売られたこの本は、公式サイトによれば版を重ねて40万部に達した。読者に向かって疾走する自動車を映画的なコマ割りで連ねた冒頭は、創世神話となった。藤子不二雄から石ノ森章太郎まで、次の世代の多くの作家が、この本を読んでマンガ家を志したと語っている。
続いて赤本出版社から「ロストワールド」「メトロポリス」「来るべき世界」など長編が次々と刊行され、「ストーリーマンガ」が確立されていく。1950年、学童社を偶然訪れて『漫画少年』編集長の加藤謙一と出会い、「ジャングル大帝」の連載が決まる(1950年11月号~1954年4月号)。1951年3月24日に医学専門部を卒業し、1952年7月16日に医師国家試験に合格。しかし医師として診療に携わることはなかった。
東京、トキワ荘、ストーリーマンガ(1952-1961)
国家試験合格後の1952年、手塚は仕事の場を東京に移し、四谷の八百屋の二階に下宿した。1953年には豊島区椎名町のアパート、トキワ荘へ移る。滞在は1954年10月までと短いが、彼が去った部屋には藤子不二雄の二人が入り、寺田ヒロオ、石ノ森章太郎、赤塚不二夫らを中心に、トキワ荘は一つの世代の揺籃となった。1954年3月には関西長者番付の画家の部でトップ(年収217万円)、1961年には全国の画家・漫画家の部でトップ(年収914.5万円)と発表されている。
三つの原点
光文社の月刊誌『少年』では、「アトム大使」(1951)のロボット少年が「鉄腕アトム」の主人公となり、1952年から1968年まで連載された。『少女クラブ』では1953年1月号から1956年1月号まで「リボンの騎士」を連載。男の心と女の心をもって生まれ、王位を継ぐために男装する王女の物語は、現代少女マンガの原型の一つとされる。『漫画少年』の「ジャングル大帝」は、白いライオン、レオの生涯をその死まで描ききった。
| 作品 | 連載期間 | 掲載誌 | フランス語題 |
|---|---|---|---|
| ★新寶島 | 1947.1 | 描き下ろし単行本(赤本) · 酒井七馬原作 | La Nouvelle Île au trésor |
| ★★ジャングル大帝 | 1950-1954 | 『漫画少年』 | Le Roi Léo |
| ★★鉄腕アトム | 1952-1968 | 『少年』(光文社) | Astro Boy / Astro le petit robot |
| ★リボンの騎士 | 1953-1956 | 『少女クラブ』 · 新版は『なかよし』(1963) | Princesse Saphir |
| ★★火の鳥 | 1954-1988 | 『漫画少年』、のち『COM』(1966年末)ほか | Phénix, l'oiseau de feu |
| どろろ | 1967-1968 | 『週刊少年サンデー』 | Dororo |
| きりひと讃歌 | 1970-1971 | 『ビッグコミック』 | Kirihito |
| ★★ブッダ | 1972-1983 | 『希望の友』、のち『コミックトム』 | Bouddha |
| ★★ブラック・ジャック | 1973-1983 | 『週刊少年チャンピオン』(秋田書店) | Black Jack |
| 三つ目がとおる | 1974-1978 | 『週刊少年マガジン』 | Le Prince aux trois yeux |
| MW | 1976-1978 | 『ビッグコミック』 | MW |
| 陽だまりの樹 | 1981-1986 | 『ビッグコミック』 | L'Arbre au soleil |
| ★★アドルフに告ぐ | 1983-1985 | 『週刊文春』 | L'Histoire des 3 Adolf |
| ルードウィヒ・B、グリンゴ、ネオ・ファウスト | 1987-1989 | 死去により未完となった三作 | Gringo(2009) |
1958年、「びいこちゃん」「漫画生物学」で第3回小学館漫画賞を受賞。同年、東映動画の嘱託となり、「西遊記」(1960年8月14日公開)の原案構成・演出を受け持つ。これがアニメーションにおける最初の仕事である。1959年10月4日、阪急宝塚ホテルで岡田悦子と結婚。1961年1月19日、奈良県立医科大学で「異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究(タニシの精虫の研究)」により医学博士の学位を取得した。同年8月には長男・真が誕生している。のちの映像作家、手塚眞である。
虫プロダクションとテレビアニメの誕生
1961年6月、手塚は手塚治虫プロダクション動画部を設立する。1962年1月に虫プロダクションと改称し、4月10日に練馬の新スタジオへ移転、12月に株式会社として新発足した。1962年11月5日、銀座ヤマハホールで開かれた「虫プロダクション第1回作品発表会」では三本が上映された。実験アニメ「ある街角の物語」、「おす」、そして、やがて業界を一変させることになるシリーズの第1話である。
1963年1月1日、フジテレビで「鉄腕アトム」の放映が始まった。国産初の、毎週1回・1話30分の連続テレビアニメである。1966年12月31日までに193話が制作され、手塚プロダクションによれば最高視聴率40.3%、平均25%を記録した。手塚自身も多くの回で演出、絵コンテ、脚本を担当している。少人数で週1本を仕上げるため、スタジオはリミテッドアニメーションを極限まで推し進めた。作画の徹底した再利用、セルのバンク化、カメラワークで動かす止め絵である。
「55万円」の神話
手塚は、実際の制作費を大きく下回る1話約55万円で番組を売り込み、市場を獲得したと語っていた。この数字は長く続く告発の根拠となった。アニメを安売りしたことで、低賃金と過重労働の構造を作ったというのである。その最も厳しい言葉は、手塚の死の直後、宮崎駿によって発せられた。
「手塚治虫に『神の手』をみた時、ぼくは彼と決別した」
— 宮崎駿、『COMIC BOX』1989年5月号のインタビュー表題(『出発点 1979~1996』所収)
今日、研究者たちはこの物語を大きく修正している。津堅信之は『アニメ作家としての手塚治虫』(2007)で、実際に支払われた制作費は手塚の発言より高かったことを実証した。中川右介は『アニメ大国建国紀1963-1973』で、虫プロの賃金はむしろ高い水準だったと論じている。津堅によれば、半世紀にわたるアニメの安い制作費の原因を手塚一人に押しつけるのは、話を飛躍させすぎている。
虫プロダクションのテレビシリーズ
| 作品 | 放映(日本) | 局 | 特記事項 |
|---|---|---|---|
| ★★鉄腕アトム | 1963-1966 | フジテレビ | 全193話 · 国産初の30分シリーズ 公式 |
| 新宝島 | 1965.1.3 | フジテレビ | 初の1時間長編テレビアニメ |
| W3 | 1965-1966 | フジテレビ | SF |
| ★★ジャングル大帝 | 1965-1966 | フジテレビ | 国産初のカラーテレビアニメシリーズ · 全52話 |
| ジャングル大帝 進めレオ! | 1966-1967 | フジテレビ | 続編、成長したレオ |
| ★リボンの騎士 | 1967-1968 | フジテレビ | 第1話は月岡貞夫との共同演出 |
| どろろ | 1969 | フジテレビ | 時代伝奇 |
| ふしぎなメルモ | 1971-1972 | 朝日放送 | 手塚プロダクション制作 |
| ワンサくん | 1973 | 関西テレビ | 倒産前、虫プロ最後のシリーズ |
スタジオは学校でもあった。りんたろう、杉井ギサブロー、山本暎一、出﨑統らがここで腕を磨き、彼らの世代がその後数十年にわたってスタジオを率いることになる。1964年4月30日には長女・るみ子が誕生。1965年にはスタンリー・キューブリックから映画「2001年宇宙の旅」の美術担当を依頼する手紙が届いたが、手塚はこれを断った。1968年には、マンガ制作のための株式会社手塚プロダクションを設立する。
映像作家として:アニメラマと実験アニメ
商業制作のかたわら、手塚は自らのための作品を作り続けた。「ある街角の物語」は1963年、毎日映画コンクールの第1回大藤信郎賞を受賞する。日本のアニメーションにおける最も重要な賞である。続いて「めもりい」「人魚」(1964)、「しずく」(1965)、そしてムソルグスキーの組曲による「展覧会の絵」(1966)が制作され、1967年に再び大藤信郎賞とアジア映画祭動画賞を受けた。劇場版「ジャングル大帝」(1966)は、1967年にベネチア国際映画祭でサンマルコ銀獅子賞を受賞している。
そしてアニメラマ。虫プロが制作し日本ヘラルド映画が配給した、大人向け長編アニメの三部作である。「千夜一夜物語」は1969年6月14日に公開されて大ヒットし、山本暎一と共同監督した「クレオパトラ」が1970年9月15日に続いた。第三作「哀しみのベラドンナ」(1973)は山本暎一の監督作で、手塚は1971年6月に虫プロ社長を退いていた。
1980年代は、手塚プロダクションの自主制作による短編が国際的な評価を確立した時代である。止まることのない跳躍を主観ショットの長回しで描いた「ジャンピング」は、1984年6月15日、ザグレブ国際アニメーションフェスティバルでグランプリとユネスコ賞を受賞。傷だらけの無声西部劇をパロディにした「おんぼろフィルム」は、1985年8月23日、第1回広島国際アニメーションフェスティバルでグランプリを獲得した。1987年12月に完成した「森の伝説」は、チャイコフスキーの交響曲にのせて、ディズニーから産業化の時代までのアニメーション史をたどる作品で、1988年、4度目の大藤信郎賞をもたらした。
| 作品 | 年 | 形式 | 受賞 |
|---|---|---|---|
| ★ある街角の物語 | 1962 | 短編 | 第1回大藤信郎賞 · ブルーリボン教育文化映画賞 · 芸術祭奨励賞 |
| 展覧会の絵 | 1966 | 短編 | 1967年大藤信郎賞 · 1967年アジア映画祭動画賞 |
| ジャングル大帝(劇場版) | 1966 | 長編 | 1967年ベネチア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞 |
| 千夜一夜物語 | 1969 | 長編 · アニメラマ | 大ヒット |
| クレオパトラ | 1970 | 長編 · アニメラマ | 山本暎一と共同監督 |
| やさしいライオン | 1970 | 中編(制作) | 大藤信郎賞 |
| 火の鳥2772 愛のコスモゾーン | 1980 | 長編 | 1980年サンディエゴ・インクポット賞 |
| ★★ジャンピング | 1984 | 短編 | 1984年ザグレブ グランプリ・ユネスコ賞 公式 |
| ★★おんぼろフィルム | 1985 | 短編 | 1985年広島 グランプリ · 同年バルナ |
| プッシュ、村正 | 1987 | 短編 | 1987年広島で公開 |
| ★森の伝説 | 1987 | 短編 | 1988年大藤信郎賞 · 1988年ザグレブCIFEJ賞 · ブール・アン・ブレス |
倒産と復活:「ブラック・ジャック」「ブッダ」「火の鳥」
1970年代初頭は、そのキャリアの底であった。新しい世代が担う写実的で暴力的な劇画の隆盛のなか、批評は手塚を時代遅れとみなし、虫プロダクションは負債を抱えていく。グループの販売会社である虫プロ商事が1973年8月22日に、虫プロダクションが11月1日に倒産した。手塚は1971年6月に社長を退いていたが、その負債と不評を背負うことになった。
復活は少年週刊誌からもたらされた。1973年11月、秋田書店の『週刊少年チャンピオン』で「ブラック・ジャック」の連載が始まる。当初は短期の予定だった。無免許の天才外科医が、法外な報酬で手術を引き受ける。各話が完結した短編であり、医学の講義であり、良心の問いである。成功はすぐに訪れ、長く続いた。1975年には日本漫画家協会賞特別優秀賞を受賞し、1972年に始まった「ブッダ」は文藝春秋漫画賞を受けた。1977年には「ブラック・ジャック」と「三つ目がとおる」が第1回講談社漫画賞に輝いている。
この時代はまた、暗く成熟した作品の時代でもある。人間を獣に変える奇病を描いた「きりひと讃歌」、戦後の一族の年代記「奇子」、化学兵器と非道な殺人者をめぐる「MW」。遠い過去から究極の未来までを往還する連作「火の鳥」は、彼のライフワークとなった。1978年に市川崑監督によって実写映画化され、1980年には手塚の総監督でアニメ「火の鳥2772 愛のコスモゾーン」が作られた。1978年には日本テレビのために、国内初の2時間スペシャルテレビアニメ「100万年地球の旅 バンダーブック」を手がけ、毎年恒例のスペシャル枠が始まった。1977年6月15日、講談社は全300巻の『手塚治虫漫画全集』の刊行を開始し、1984年10月3日に完結。のちに全400巻となった。
最後の十年(1980-1989)
1980年代は、野心の頂点にある作家の時代である。曽祖父である蘭方医を通して幕末を描いた「陽だまりの樹」は、1984年に小学館漫画賞(青年・一般向け部門)を受賞。1983年から1985年まで報道週刊誌『週刊文春』に連載された「アドルフに告ぐ」は、ヒトラーを含む三人のアドルフの運命を、その出自の秘密をめぐって交錯させる作品で、1986年に講談社漫画賞を受けた。テレビにも戻り、カラー版の新「鉄腕アトム」が1980年10月1日から1981年12月23日まで日本テレビで放映された。
手塚は大使ともなった。1980年3月、国際交流基金のマンガ大使として渡米し、国連本部で講演する。中国、ブラジル、カナダへも赴いた。1978年には新発足の日本アニメーション協会の初代会長となり、1987年には創設を支えた広島国際アニメーションフェスティバルで国際審査委員長を務めている。1988年1月29日、戦後のマンガとアニメ界における創造的な業績により朝日賞を受賞した。
1988年3月15日、腹部の痛みで東京の半蔵門病院に入院。17日に手術を受け、5月12日に退院した。11月には上海に赴き、第1回上海国際アニメーションフェスティバルの国際審査員を務める。これが海外での最後の仕事となった。10月3日に再入院、12月5日に再手術。病室で「ルードウィヒ・B」「グリンゴ」「ネオ・ファウスト」の三作を抱えたまま、1989年2月9日、胃がんのため60歳で没した。平成の始まりからひと月後のことである。最期の言葉はよく知られている。
「仕事をさせてくれ」
— 手塚治虫の最期の言葉、『神戸新聞』2019年2月5日付より
フランスと仏語圏:「ジャングル大帝」からアングレームへ
手塚は、フランスの家庭に入った最初の日本人作家である。公式年譜によれば、「鉄腕アトム」は1960年代にフランスを含む各国へ輸出された。しかし記録で確認できる最初の放映は、1972年、ORTF(フランス国営放送)での「ジャングル大帝」Le Roi Léoであり、フランスのテレビに登場した最初の日本アニメとしばしば紹介される。ベルギーの公共放送RTBFは、これを日本が欧州の映像界に初めて食い込んだ出来事とみている。放送記録によれば、これは第2シリーズ「進めレオ!」で、1972年12月20日から放映された。1965年のオリジナルシリーズが届くのは1990年、Le Retour du Roi Léoの題によってである。「リボンの騎士」は1974年12月にTF1で続き、当初はPrince Saphir(サファイア王子)の題であった。
1980年代の子どもたちは、1980年のカラー版「鉄腕アトム」をAstro, le petit robotとしてTF1で知った。フランス国立図書館には、同局が1985年に作成した番組紹介冊子が所蔵されている。竹内啓雄監督の劇場版「ジャングル大帝」(1997)は、手塚の構想した物語にもとづく作品で、2005年4月20日にLéo, roi de la jungleの題でフランス公開された。
生前のフランス体験
あまり知られていないが、手塚はフランスをよく知っていた。1982年1月27日から2月1日まで、アングレームの第10回国際漫画祭に招かれ、画家メビウスと知り合う。同年7月、来日したメビウスの京都・奈良旅行に同行した。1983年6月にはアヌシー国際アニメーションフェスティバルに「千夜一夜物語」「クレオパトラ」で招待され、1987年にも出席している。1985年7月には、アルケスナン(王立製塩所)で開かれた日仏文化サミットで「共通言語としての漫画」を講演し、1987年3月には外務省の依頼でナンシーで講演した。1984年4月からは、白水社の雑誌『ふらんす』で「ブラック・ジャック」のフランス語版が掲載されている。1988年には「森の伝説」がブール・アン・ブレスの青少年のためのアニメーション映画祭で受賞した。
フランスでの出版
手塚のマンガが書店に並ぶのは遅く、1990年代の出版ブームを待たねばならなかった。グレナが1996年から2000年まで「ブラック・ジャック」を刊行し、トンカムが1997年にシルヴィアンヌ・ギヤデールの翻訳で「ブッダ」を、1998年に「アドルフに告ぐ」を出版した。その後、アスカ、カナ(Senseiシリーズの「鉄腕アトム」)、ソレイユ(「リボンの騎士」)、イサン・マンガ(「ブラック・ジャック」豪華版、2023-2026)が続く。2019年からはデルクール/トンカムが主要作を豪華版で再刊しており、2019年9月に「きりひと讃歌」と「火の鳥」、2025年11月に「リボンの騎士」、2026年に続編「サファイアの子供たち」を出している。
| 作品 | フランス | 備考 |
|---|---|---|
| ジャングル大帝 進めレオ!(Le Roi Léo) | 1972.12.20 · ORTF | 記録上フランス初の日本アニメ 要検証 |
| リボンの騎士(Princesse Saphir) | 1974.12 · TF1 | 当初の題はPrince Saphir 要検証 |
| 鉄腕アトム(1980)(Astro, le petit robot) | 1980年代半ば · TF1 | フランス国立図書館所蔵のTF1冊子(1985) |
| ジャングル大帝(1965)(Le Retour du Roi Léo) | 1990.9.17 | オリジナルシリーズ 要検証 |
| ブラック・ジャック(単行本) | 1996 · グレナ | 初の仏語単行本 |
| ブッダ(単行本) | 1997 · トンカム | シルヴィアンヌ・ギヤデール訳 |
| 劇場版ジャングル大帝(Léo, roi de la jungle) | 2005.4.20 | 劇場公開 |
| PLUTO(浦沢直樹、手塚原作) | 2011.1 · アングレーム | 世代間賞(Prix Intergénérations) |
| 展覧会「手塚治虫 マンガの神様」 | 2018.1.25-3.11 · アングレーム | 欧州初の大規模回顧展 公式 |
2018年1月、生誕90年と「ジャポニスム2018」を機に、第45回アングレーム国際漫画祭は1月25日から3月11日まで、アングレーム美術館で「手塚治虫 マンガの神様」展を開催した。多数の原画を展示した、欧州初の本格的な回顧展とされる。同月、ピカ社はかつてのアシスタント、伴俊男による伝記マンガの仏語版Osamu Tezuka, une vie en manga(930ページ)を刊行した。2011年には、「鉄腕アトム」の一編を浦沢直樹が再構築した「PLUTO」が、アングレームで世代間賞を受賞している。
欧州と世界:アストロボーイ、キンバ、ディズニー論争
国際展開は、虫プロの構想に最初から組み込まれていた。1963年3月、手塚はNBCとの契約のためニューヨークへ赴く。3月10日に試写会が行われ、5月に52本の配給契約が成立し、9月7日から米国で「ASTRO BOY」の題で放映された。手塚プロダクションによれば、その後イギリス、フランス、西ドイツ、オーストラリア、台湾、香港、タイ、フィリピンでも放映された。当初から海外輸出を見据えてカラーで制作された「ジャングル大帝」は、米国で「Kimba the White Lion」となる。中国では中央電視台が1980年12月17日から「鉄臂阿童木」を、1982年には「森林大帝」を放映し、手塚もキャンペーンに協力した。
キンバと「ライオン・キング」
1994年、ディズニーの「ライオン・キング」公開は「キンバ」の記憶を呼び覚ました。王家の子ライオン、賢いヒヒ、隻眼の悪役、雲に現れる父の姿。マンガ家の里中満智子は、ディズニーの日本の配給会社に公開書簡を送り、作品の冒頭に原典への敬意を示す数行を入れるよう求めた。ディズニーは「ハムレット」と「バンビ」を挙げ、影響を否定した。手塚プロダクションの松谷孝征社長は、両作は「まったく別のもの」であり、もしディズニーが手塚作品に影響を受けたのなら、手塚は光栄に思ったであろうと述べた。訴訟は起こされていない。手塚の友人で翻訳者のフレデリック・ショットは、いくつかの場面は偶然とは思えないほど似ていると評した。
米国での評価は制度的なものでもある。ヴァーティカル社が刊行した「ブッダ」は2004年と2005年にアイズナー賞(最優秀海外作品米国版)を受賞し、手塚はアイズナー賞の殿堂入りを果たした。サンディエゴでは早くも1980年に「火の鳥2772」でインクポット賞を受けている。2003年には、アトムの誕生日とされる4月7日にあわせて新シリーズ「ASTRO BOY 鉄腕アトム」が放映され、同年、浦沢直樹が「PLUTO」を開始した。同作は2023年にNetflixでアニメ化されている。2009年には、香港のイマジ社が3DCGの長編映画「ATOM」を制作した。
遺産:2028年の生誕100年へ
生前から呼ばれた「マンガの神様」という称号は、より広く浸透した影響を十分には言い表していない。藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、横山光輝、水野英子、矢代まさこ、萩尾望都らは、手塚に接し、あるいはその作品を読んでマンガ家を志した作家たちである。1971年には、集英社『週刊少年ジャンプ』が新人の登竜門として新設した手塚賞の審査委員長となった。映画的なカメラアングル、躍動するコマ割り、長編の物語、作品を越えて登場する「スターシステム」。その文法は、マンガ全体の文法となった。
1994年4月25日、宝塚市は「自然への愛と生命の尊さ」をコンセプトに、宝塚市立手塚治虫記念館を開館した。手塚プロダクションは、多大な影響を与えた宝塚以外にはありえなかったと説明している。入り口の「火の鳥」像は、1995年の阪神・淡路大震災からの復興の象徴ともなった。1997年には朝日新聞社が手塚治虫文化賞を創設し、その正賞はアトム像である。2025年には、虫プロ出身のりんたろうによる自伝マンガがマンガ大賞を受賞した。命日の2月9日は、古書店まんだらけによって「漫画の日」と定められている。
生き続ける作品
手塚プロダクションは2025年にアニメ「ジャングル大帝」放送開始60周年を、2026年に「ユニコ」連載50周年を迎えた。2025年11月1日からは、第1作「鉄腕アトム」全193話がテレビ埼玉で4年をかけて放送され、TVerで初めて配信されている。2026年8月8日には、「リボンの騎士」を原案とする五十嵐祐貴監督、OUTLINE制作の長編アニメ「THE RIBBON HERO リボンヒーロー」(108分)がNetflixで世界独占配信され、アヌシー国際アニメーション映画祭2026でも上映された。2026年6月には、全ページが二度にわたって描き変えられた1961年の「アリと巨人」のオリジナル版が、初めて単行本に収録された。
2026年4月25日、宝塚市は手塚プロダクションと連携し、2028年11月3日の生誕100年に向けた記念事業の協議会を設立した。フランスの読者にとっても好機である。作品の大半はいまや丁寧な版で手に入り、その仕事の最も独創的な部分である実験アニメーションは、再発見を待っている。
年表
| 日付 | 出来事 | |
|---|---|---|
| 1928.11.3 | 大阪府豊中市に生まれる | 日本 |
| 1945.7.1 | 大阪大学附属医学専門部に入学 | 日本 |
| 1946.1.1 | ★「マアチャンの日記帳」でデビュー | 日本 |
| 1947.1 | ★酒井七馬原作「新宝島」刊行 | 日本 |
| 1950.11 | 『漫画少年』で「ジャングル大帝」連載開始 | 日本 |
| 1952 | ★★「鉄腕アトム」連載開始 · 医師国家試験合格(7月16日) · 上京 | 日本 |
| 1953 | トキワ荘へ転居 · 「リボンの騎士」連載開始 | 日本 |
| 1959.10.4 | 岡田悦子と結婚 | 日本 |
| 1961.1.19 | 医学博士(奈良県立医科大学) | 日本 |
| 1961.6 | のちの虫プロダクションを設立 | 日本 |
| 1963.1.1 | ★★フジテレビで「鉄腕アトム」放映開始 | 日本 |
| 1963.9.7 | NBCで「ASTRO BOY」放映 | 米国 |
| 1965.10.6 | 国産初のカラーシリーズ「ジャングル大帝」 | 日本 |
| 1967 | ベネチアでサンマルコ銀獅子賞 · 『COM』で「火の鳥」 | イタリア |
| 1968.1.23 | 手塚プロダクション設立 | 日本 |
| 1969.6.14 | 「千夜一夜物語」(アニメラマ)公開 | 日本 |
| 1972.12.20 | ORTFで「ジャングル大帝」放映 | フランス |
| 1973.11.1 | 虫プロダクション倒産 | 日本 |
| 1973.11 | ★★「ブラック・ジャック」連載開始 | 日本 |
| 1977.7.22 | 第1回講談社漫画賞 | 日本 |
| 1982.1 | アングレームに招待、メビウスと出会う | フランス |
| 1983 | 「アドルフに告ぐ」連載開始 · アヌシーに招待 | 日本 · フランス |
| 1984.6.15 | 「ジャンピング」ザグレブでグランプリ | ユーゴスラビア |
| 1985.8.23 | 「おんぼろフィルム」広島でグランプリ | 日本 |
| 1988.1.29 | 朝日賞受賞 | 日本 |
| 1989.2.9 | ★★60歳で死去 | 日本 |
| 1994.4.25 | 宝塚市立手塚治虫記念館開館 | 日本 |
| 1997 | 手塚治虫文化賞創設 | 日本 |
| 2018.1.25 | アングレームで「マンガの神様」展 | フランス |
| 2026.8.8 | Netflixで「THE RIBBON HERO リボンヒーロー」配信 | 世界 |
| 2028.11.3 | 生誕100年 | 予定 |