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特集 · TVシリーズ · 美術監督、背景、作画、吹き替え · 1975年 → 1978年
『みつばちマーヤの冒険』
原題 『みつばちマーヤの冒険』 (Mitsubachi Māya no bōken) · 仏題Maya l'abeille · 制作会社:ズイヨー映像(Zuiyō Eizō)、のち日本アニメーション(Nippon Animation)· 原作:ワルデマル・ボンゼルス(Waldemar Bonsels)
フランスでマーヤといえば、一つの声、すなわちナディーヌ・ドゥラノエ(Nadine Delanoë)の声であり、何世代もの人々が今も口ずさめる一曲である。だが制作の側から見れば、これはバトンの受け渡しの物語であった。途中で行き詰まる一つのスタジオ、ズイヨー映像。最初の6話のあとで番組を引き継ぐもう一つのスタジオ、日本アニメーション。交代した最初の監督。『アルプスの少女ハイジ』の風景を描いたばかりの美術監督、井岡雅宏。そして自国の登場人物を押しつけてくるドイツのテレビ局。本稿は1975年のスタッフの仕事を復元し、このミツバチをTF1の画面まで追う。
1912年の小説から画面へ
マーヤは紙の上に生まれた。ドイツの作家ワルデマル・ボンゼルス(Waldemar Bonsels)は1912年に『Die Biene Maja und ihre Abenteuer』を発表した。この年号は、フランス語版・ドイツ語版・英語版の各ウィキペディアと、日本アニメーションの紹介ページが一致して挙げている。ボンゼルスは1880年2月21日にアーレンスブルク(Ahrensburg)に生まれ、1952年7月31日にアンバッハ(Ambach)で没した。1915年には本作の続編『Himmelsvolk』を著しており、これはドイツ語版ウィキペディアと、彼の名を冠した財団が記している。
作者の扱いは微妙であり、本稿はそれを避けて通らない。英語版ウィキペディアとドイツ語版ウィキペディアは、いずれも公然たる反ユダヤ主義者としての作者を描いており、その1933年の論稿『NSDAP und Judentum』はナチスの政策を是認していた。イタリアの雑誌 Artribune は、本作を自然への敬意に注意を払った最初期のアニメーションの一つに数えたうえで、それは作者の民族主義的なイデオロギーにもかかわらずのことだと付け加えている。日本側の資料は、これについて何も語っていない。日本アニメーションの公式ページは、ボンゼルスがハンブルク近郊に生まれ、その小説が世界的な古典になったとだけ述べている。
映像化の発端は日本ではなく、ドイツのテレビであった。ZDFの青少年向け番組の責任者であったヨーゼフ・ゲーレン(Josef Göhlen)がこの企画の発案者であると、日刊紙『Neue Westfälische』、ZDFheute、ボンゼルス財団、ドイツ語版ウィキペディアが述べている。同紙によれば、彼はこのとき『Wickie und die starken Männer』の後継番組を探していた。両者のつながりは直接的である。『Wickie』もまたズイヨーの作品だからだ。英語版ウィキペディアは『Vicky the Viking』(1974〜1975年)をズイヨーのドイツとの共同制作作品の一つに挙げ、TaurusMediaTechnik を扱うドイツ語版ウィキペディアは、『Wickie』(1974年)と『Die Biene Maja』(1975年)を、キルヒ(Kirch)グループ向けに吹き替えられた一連のシリーズの同じ系譜に位置づけている。
ゲーレンは、ハンナ=バーベラ(Hanna-Barbera)出身のアメリカ人画家マーティ・マーフィー(Marty Murphy)と組んだ。ドイツ語版ウィキペディア(そのミラーサイト de-academic)と Fernsehserien によれば、二人はアメリカでの最初の顔合わせの時点で、すでに登場人物と筋書きの原案を作っており、『Neue Westfälische』は、脚本がロサンゼルスで練り上げられたと明記している。したがって日本は、すでに書き上げられた発注仕様を受け取ったことになる。ミツバチはドイツのもの、脚本はアメリカのもの、絵は東京近郊で描かれる。
脚色は原作から離れている。マーヤの仲間のミツバチであるウィリ(Willi)と、彼女を導くバッタのフリップ(Flip)は、ボンゼルスの小説には存在しない。ボンゼルス財団、ドイツ語版ウィキペディア(ミラーサイト de-academic)、フランス語版ウィキペディアの記述が一致している。日本側はこの二人の人物を、「ウイリー」(Willy)と「フィリップ」(Philip)の名で残した。日本アニメーションの公式作品ページと日本語版ウィキペディアにある表記である。フランス語版がフリップと名づけるのは、このバッタである。
ズイヨー映像、日本アニメーション — 経営破綻をまたいだシリーズ
この番組はまずズイヨーのものである。このスタジオ(瑞鷹)は1969年に高橋茂人によって設立された。日本語版・英語版のウィキペディアが、同じ創設者を挙げている。アニメーション部門のズイヨー映像は、1974年に『アルプスの少女ハイジ』を制作した。フジテレビで1月6日から12月29日まで放送されたことは、この作品を扱う二つのウィキペディアとジブリ美術館のページが裏づけている。SAKUGAARTはすでにこの作品に一本の特集『Heidi, fille des Alpes』を充てており、高畑勲が演出し、宮崎駿が場面設定を担い、小田部羊一がキャラクターを描いたと、この特集も英語版ウィキペディアも述べている。ただしこの記事はマーヤに触れていない。本稿はその空白を埋めるものである。
ズイヨーは持ちこたえられなかった。『ハイジ』の特集は、1974年の放送期間中に深刻な財政難があったことに触れており、日本アニメーションの英語版ウィキペディアはそれをシリーズの制作費の高さに帰している。1975年、本橋浩一がスタッフを率いて日本アニメーションを設立する。ズイヨーと日本アニメーションの日本語版ウィキペディア、およびズイヨーの英語版ウィキペディアは、制作スタッフが新会社へ移ったこの経緯を記している。ただし、権利まで移ったわけではない。日本アニメーションの日本語版ウィキペディアは知的財産が譲渡されなかったと明記し、ズイヨーの英語版ウィキペディアは、ズイヨー側に負債と『ハイジ』『マーヤ』の権利が残ったとしている。
こうしてマーヤは、この分裂によって二つに切り分けられた。日本語版ウィキペディア、英語版ウィキペディア、148neo のガイド、Weblio の抜粋が一致して、最初の6話はズイヨー映像、それ以降は日本アニメーションの制作だとしている。日刊紙『Neue Westfälische』は、番組のアニメーション制作を東京近郊の多摩に置いている。日本アニメーションは、同社の日本語版ウィキペディアによれば、そこにスタジオを構えている。
日本での放送は、この移行の影響を受けなかった。マーヤは1975年4月1日から1976年4月20日まで、毎週火曜の19時30分から20時まで、ABC/NET系列(のちのテレビ朝日)の各局で放送された。日本アニメーションの公式作品ページと紹介ページ、日本語版ウィキペディア、英語版ウィキペディア、Animate Times がこの日程を挙げており、全52話となる。フランス側のカタログでは1話あたり22分または26分とされている(フランス語版ウィキペディアのミラーサイト、アニメガイズ)が、日本の放送枠は30分である。
この日本側制作の筆頭に立つのは本橋浩一で、日本語版ウィキペディア、日本アニメーションの紹介ページ、148neo のガイドが製作としてクレジットしている。プロデューサーは渡辺忠美と大場伊紘であると、公式作品ページと Animate Times は記す。
1975年のスタッフ — 監督、脚本、キャラクター
監督には、順に二つの名前が並ぶ。最初が遠藤政治、次が斎藤博である。日本語版ウィキペディア、148neo のガイド、英語版ウィキペディア、プラネット・ジュネスは、遠藤、続いて斎藤をクレジットしている。日本アニメーションの公式作品ページ、Anime Hack(映画.com)、Animate Times は斎藤だけを挙げており、斎藤がシリーズの演出を務めたとする。
脚本には高橋二三の刻印がある。日本アニメーションの公式作品ページ、Anime Hack、Animate Times、日本語版ウィキペディアは彼をシリーズ構成としてクレジットしており、本人の日本語版ウィキペディアも、テレビの仕事の一つに『みつばちマーヤの冒険』を挙げている。脚本は、公式作品ページと Animate Times によれば、金沢一、笹ひかると分担して書いた。キャラクターについては、白梅進と野部駿夫の二人の名がクレジットを分け合っており、公式作品ページ、Anime Hack、Animate Times がそう記している。プラネット・ジュネスとドイツ語版ウィキペディアは、白梅をキャラクターの設計者として挙げている。
劇伴は大柿隆で、公式作品ページ、Anime Hack、Animate Times、日本語版ウィキペディアが一致する。録音監督は浦上靖夫で、公式作品ページ、Animate Times、日本語版ウィキペディアによる。声の出演は、野村道子がマーヤ、野沢雅子がウイリー、永井一郎がフィリップ、麻生美代子が先生のカッサンドラ(Cassandra)で、同じ資料に加えて、ファミリー劇場のページもこれを示している。
| 年 | 担当 | 名前 | 裏づけ資料 |
|---|---|---|---|
| 1975年 | 監督 | 遠藤政治、のち斎藤博 | 日本語版ウィキペディア、148neo、英語版ウィキペディア、プラネット・ジュネス |
| 1975年 | シリーズ構成・脚本 | 高橋二三 | 日本アニメーション、Anime Hack、Animate Times、日本語版ウィキペディア |
| 1975年 | 脚本 | 金沢一、笹ひかる | 日本アニメーション、Animate Times |
| 1975年 | キャラクター | 白梅進、野部駿夫 | 日本アニメーション、Anime Hack、Animate Times |
| 1975年 | 美術監督 | 井岡雅宏 | 日本アニメーション、Anime Hack、Animate Times、プラネット・ジュネス、アニメガイズ、ANN |
| 1975年 | 音楽 | 大柿隆 | 日本アニメーション、Anime Hack、Animate Times、日本語版ウィキペディア |
| 1975年 | 日本版の主題歌 | 伊勢正三 | 日本アニメーション(公式作品ページと紹介ページ)、日本語版ウィキペディア |
| 1975年 | 録音監督 | 浦上靖夫 | 日本アニメーション、Animate Times、日本語版ウィキペディア |
| 1975年 | 製作 | 本橋浩一 | 日本語版ウィキペディア、日本アニメーション(紹介ページ)、148neo |
見えない仕事 — 背景、作画、仕上
美術監督は井岡雅宏である。その名は、日本アニメーション、Anime Hack、Animate Times、プラネット・ジュネス、アニメガイズ、アニメニュースネットワークのいずれにも見える。1941年2月18日生まれ、1985年9月25日没であることは、日本語版ウィキペディアとアニメニュースネットワークが記している。『アルプスの少女ハイジ』『赤毛のアン』『あらいぐまラスカル』『草原の少女ローラ』などの美術を手がけたと、アニメニュースネットワークの一覧と日本語版の項にあり、マーヤの美術監督を務めたことも同じページが示している。
この経歴は、『ハイジ』との最も明確なつながりを描き出す。ジブリ美術館、アニメニュースネットワーク、日本語版ウィキペディアがクレジットしているアルプスの連続アニメの美術監督が、このミツバチの美術監督でもあるのだ。これは小さなことではない。彼の自然の風景は高畑と宮崎に称賛されたと、日本語版ウィキペディアと、彼の画集を扱うブログが伝えている。虫の目から見た草の葉に、このまなざしが何をもたらしたのかを想像したくなる。だが、参照した資料のどれも、彼のマーヤの背景美術を描写していない。本稿はクレジットにとどめる。
作画は、スタジオの内部で行われたわけではない。日本語版ウィキペディアと Animate Times は外部の工房をクレジットしており、その中にトップクラフト、モドキプロダクション、アニメルームがある。トップクラフトは1972年2月1日に、東映動画出身の原徹が設立した。主にアメリカのランキン/バス(Rankin/Bass)と仕事をし、1977年の『ホビットの冒険』などを手がけた。1985年6月15日に活動を停止したが、それはスタジオジブリが生まれる時期にあたる。これらの目安は、トップクラフトの日本語版・英語版ウィキペディアで一致している。アニメーターのうち、小川隆雄は Animate Times で作画監督として挙げられ、日本語版ウィキペディアのモドキプロダクションのアニメーター一覧にも名がある。
残るは仕上である。色の仕事であり、これなくしては絵はただの線にすぎない。資料は食い違う。Animate Times は「仕上・検査」に宇野薫をクレジットしているが、日本語版ウィキペディアは検査に水田めぐみの名を挙げ、彩色会社を列挙している。誰がシリーズの色調を決めたのか、すなわち色彩設計は、未解決のままである。
三つの主題歌 — 東京、ミュンヘン、パリ
マーヤの主題歌は一つではなく、三つある。日本では、オープニングの「みつばちマーヤの冒険」をチータとみつばち合唱団が歌っており、日本アニメーションの公式作品ページ、Anime Hack、Animate Times、日本語版ウィキペディアがそう記している。エンディングの「おやすみマーヤ」も同じ顔ぶれが担当する。二つ目のエンディング「真珠いろのワルツ」は前川陽子が歌い、先の四つの資料が一致してそう述べる。この主題歌は伊勢正三の作品で、公式作品ページ、紹介ページ、日本語版ウィキペディアがクレジットしている。
ドイツでは、すべてが異なる。主題歌はチェコ人のカレル・スヴォボダ(Karel Svoboda)がフロリアン・クザーノ(Florian Cusano)の詞に作曲し、歌うのはカレル・ゴット(Karel Gott)である。ドイツ語版ウィキペディア、『Neue Westfälische』、Fernsehserien、ZDFheute、この曲を扱った英語版ウィキペディアが一致している。ゴットは、同紙と Fernsehserien によれば、曲が書き上がってからわずか30分足らずでこれを録音したと語っている。レコードは1977年にポリドール(Polydor)から出たと、ドイツ語版ウィキペディアと英語版ウィキペディアが示している。
フランスでは、この歌は1978年にアデス(Adès)から出たレコードを通じて世に出た。Bide et Musique と Discogs がこれを裏づけている。フランス語の詞はピエール・ドゥラノエ(Pierre Delanoë)、曲はカレル・スヴォボダで、Bide et Musique、ピエール・ドゥラノエを扱うサイト、Discogs がそう記し、プラネット・ジュネスもフランス語版についてスヴォボダの名を挙げている。歌唱はナディーヌ・ドゥラノエとブリジット・ウィンステル(Brigitte Winstel)である(プラネット・ジュネス、Bide et Musique、Discogs、Geneworld、フランス語版ウィキペディアのミラーサイト)。ナディーヌ・ドゥラノエは番組でもマーヤの声を担当しており、書籍『La Belle Histoire des génériques télé』に拠る Anisong がこの点を強調している。したがってフランス版とドイツ版の主題歌はスヴォボダのメロディーを共有し、日本版は別の歌である。イタリア(カティア・スヴィッツェーロ、Katia Svizzero)とケベック(ナタリー・シマール、Nathalie Simard)にも、それぞれ固有の歌ができる。Artribune、Geneworld、Anisong がこれを指摘している。
フランスとヨーロッパで
マーヤがフランスに登場するのは1978年9月16日、TF1の番組『Toujours le samedi』の枠内である。この日付はプラネット・ジュネス、フォーラムの Radio Souvenirs、アニメガイズが挙げており、Les Télévores と Baz'art は1978年9月としている。フランス語版の主な声は、ナディーヌ・ドゥラノエ(マーヤ)、ディディエ・ルセ(Didier Rousset、ウイリー)、モーリス・バケ(Maurice Baquet、フリップ)で、プラネット・ジュネス、Radio Souvenirs、フランス語版ウィキペディアのミラーサイトが名を挙げている。TF1は1978年12月28日と1979年1月2日(『Les Visiteurs de Noël』)、1980年(『Au plaisir du samedi』)、続いて1981年9月12日(『Fugues à Fugain』)に再放送した。これはプラネット・ジュネスと Radio Souvenirs が列挙しており、両者は第2シリーズも1982年春に同じ局で放送されたとしている。
フランスでの受容は、共有された思い出のそれである。Les Télévores はこの番組をカルト的な作品に数え、Baz'art は1980年代世代の思い出と評し、その世代の親たちは今、子どもたちの中にその反響を見いだしているという。映像ソフトについては、プラネット・ジュネスが1998年末のVHS(Alpa Média)、続いてTF1 VidéoのDVDを挙げ、Manga-news と Baz'art がこれを裏づけている。
ドイツでの初回放送は、1976年9月9日(木曜日)にZDFで行われた。ドイツ語版ウィキペディア、『Neue Westfälische』、Fernsehserien、ZDFheute が挙げている。シリーズは各52話の2シーズンから成る(ドイツ語版ウィキペディア、ボンゼルス財団、Fernsehserien)。ドイツ語版では、マーヤ(Maja)の声は11歳の子どもが担当し、ウィリの声はエーバーハルト・シュトレック(Eberhard Storeck)だと、ドイツ語版ウィキペディアと Fernsehserien が記している。オーストリアは対等のパートナーである。ORFとApollo-Film Wienが制作者に名を連ねていると、ボンゼルス財団、ドイツ語版ウィキペディア、Artribune が述べる。スペインでは、公共放送のTVEが1978年から番組を放送した。スペイン語版ウィキペディアと、スペイン郵便公社 Correos のプレスリリースによる。
「1975年より日本及び、44カ国語に吹き替えられ世界各国で放映された。」
— 日本語版ウィキペディア、項目「みつばちマーヤの冒険」、海外での放送に関する節 · ja.wikipedia.org
44カ国語という数字は148neo のガイドも踏襲しており、Correos のプレスリリースは「40以上の言語」としている。
1975年、1979〜1982年、2012年 — 三つのマーヤとそのソフト化
三つのシリーズを区別しなければならない。第一は1975年のもので、本稿の対象である。第二は『新みつばちマーヤの冒険』で、これは1982年のリメイクではなく続編である。日本語版ウィキペディアと英語版ウィキペディアはこれを第2シリーズとし、やはり全52話とする(アニメニュースネットワーク、アニメガイズ)。制作は1979年で、ZDFは1979年9月から1980年9月までこれを放送し(アニメニュースネットワーク、英語版ウィキペディア)、日本がこれを知るのは、1982年10月12日から1983年9月27日にかけてのテレビ大阪での放送においてのみである(日本語版・英語版ウィキペディア、アニメニュースネットワーク)。つまり日本に届くのは1982年であり、ヨーロッパを巡ったあとのことであった。監督はミツオ・カミナシ、美術監督はトラオ・アライ(Torao Arai)で、アニメニュースネットワークとプラネット・ジュネスが名を挙げている。フランスでは、プラネット・ジュネスと Radio Souvenirs によれば、このシリーズは1982年にTF1で放送され、ネズミのアレクサンドル役はドミニク・パテュレルが演じた(プラネット・ジュネス、Radio Souvenirs、フランス語版ウィキペディアのミラーサイト)。
三つ目のマーヤはヨーロッパのものである。Studio 100 Animation は2012年、ZDFおよびTF1と組んで、CGによるシリーズを制作した。英語版ウィキペディアとボンゼルス財団がそう述べている。全78話の短編(またはセグメント)から成る(英語版ウィキペディア、Baz'art、Artribune)。ドイツでは、ヘレーネ・フィッシャー(Helene Fischer)が主題歌を歌い直しており、『Neue Westfälische』と、この曲を扱う英語版ウィキペディアが伝えている。今回はスタジオがヨーロッパのもので、映像は3Dである。参照した資料のどれにも日本の工房への言及はない。
ヨーゼフ・ゲーレンは、日本側のパートナーとのやりとりが時に難しかったと述べる。通訳のせいもあれば、それぞれの誇りのせいでもあった。長い議論が必要だったが、信頼が築かれてからは、ひとことふたことの指摘で足りたという。オリジナル版が愛情と詩情とユーモアをもって作られたことを観客が感じ取ってくれるのを誇りに思うと語り、より新しいコンピューター制作の版との違いを挙げている。
— ヨーゼフ・ゲーレン、J-BIG によるインタビュー、発言の要約と言い換え · j-big.de
ソフトの面では、1975年のシリーズはフランスで、プラネット・ジュネス、Manga-news、Baz'art によれば、VHS(Alpa Média、1998年末)、次いでTF1 VidéoからDVDが出た。1978年には、すでにレコードとブック付きレコードが放送に寄り添っていた(Bide et Musique、Discogs)。日本では、ファミリー劇場がこの番組をカタログに載せているが、この再放送がいつのものか、本稿では特定できなかった。
未解明の点
見えない仕事を扱う特集には、どうしても影に残る部分がある。以下は、参照した日本の資料からも、フランス、ドイツ、スペインの資料からも確定できない、あるいは半分しか確定できない事柄である。
制作現場
色彩設計は、参照した作品情報のいずれでも誰にも帰されていない。仕上は、データベースごとに異なる人物がクレジットされており、それを実際に担った会社も単一の出典にしか拠っていない。最初の6話について、ズイヨー映像と日本アニメーションのどちらがどの要素を制作したのか、またそれらの話の画面が以降と異なるのかどうかも分からない。話数ごとの原画マンの割り振り、レイアウト、トップクラフトをはじめとする外注工房それぞれの正確な役割は、今後の記録を待つ事柄である。井岡雅宏によるマーヤの背景美術は、読んだページのどこにも描写されていない。最後に、ドイツの資料はゲーレンとマーティ・マーフィーがアメリカにいた時点でキャラクターを構想したと述べ、日本の資料は白梅と野部をクレジットしている。両者の寄与がどう噛み合ったのかは分からない。参照した資料のどれも、高畑、宮崎、小田部をマーヤのクレジットに挙げていない。ただし、クレジットの一覧に名がないことは、証拠にはならない。
製作
遠藤が斎藤に交代した理由(日本語版ウィキペディアの一文を超える部分)、日本アニメーションの正確な設立日、ZDF、ORF、Apollo-Film、朝日放送(ABC)の間の出資の分担、そして番組の日本での視聴率は、いずれも記録されていない。Taurus社の役割は議論の余地がある。プラネット・ジュネス、Albator.com.fr、フランス語版ウィキペディアはこの会社を制作スタジオとして挙げているが、TaurusMediaTechnik を扱うドイツ語版ウィキペディアは、キルヒ・グループ向けの吹き替えとポストプロダクションの活動しか記しておらず、共同制作者の立場は与えていない。
フランスとヨーロッパ
フランスの吹き替えスタジオとその演出担当は、開いたどのページにも名が出ておらず、読んだプラネット・ジュネスの作品ページにもない。エピソードがフランスのテレビ向けにカットまたは再編集されたかどうか、1978年のTF1での視聴率がどれほどだったかも分からない。1975年シリーズのイタリアでの初放送日は不確かである。Artribune は番組の開始を1981年11月26日、Rai 1 としているが、アニメニュースネットワークは同じ日付を、Rai 2 での第2シリーズに結びつけている。INA のアーカイブは本稿では利用できず、Nautiljon の作品ページ(アクセス不能)、Génériques Télé、Archives 80 も開くことができなかった。
証言
日本側のスタッフ、すなわち井岡、斎藤、野部、あるいは工房のアニメーターがマーヤについて語ったインタビューは、一つも見つからなかった。制作について直接使える唯一の証言は、ドイツ側のヨーゼフ・ゲーレンのものである。
SAKUGAARTは、こうした歩みを記録したいと考えている。日本で『みつばちマーヤの冒険』に携わった方(背景、作画、仕上、撮影)、あるいはドイツ、オーストリア、フランスで携わった方(吹き替え、翻案、放送)、また当時の資料(クレジット、工程表、セル、雑誌、レコード)をお持ちの方。ご希望に応じて秘密を厳守したうえで、編集部はお話をうかがえれば幸いである。