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特集 · TVシリーズ · 制作、声、吹き替え、検閲 · 1983年 → 2026年
北斗の拳
仏題Ken le survivant
日本での題名:『北斗の拳』(Hokuto no ken)· 『世紀末救世主伝説 北斗の拳』(Seikimatsu kyūseishu densetsu Hokuto no ken)· 制作会社:東映アニメーション(Toei Animation)· 原作者:武論尊(Buronson)、原哲夫(Tetsuo Hara)
フランスでは、『Ken le survivant』は今も、一つの声、勇ましい主題歌、そして必殺技をめぐる言葉遊びとして記憶されている。日本ではまず、めったに語られない現場の仕事である。全話にクレジットされながら自分で演出したのは2話だけというシリーズディレクター、血を逆光の陰に隠すすべを身につけていくアニメーターたち、ためらう放送局。両者のあいだには、吹き替え会社、子ども向け番組、そして資料によって語り口の異なる論争がある。本稿は1984年の制作現場をさかのぼり、主人公をフランスの画面まで追い、さらに2026年のシリーズへとたどる。
ジャンプから画面へ — 一つの漫画の誕生
北斗の拳は紙の上に生まれた。集英社の週刊誌『週刊少年ジャンプ』に連載された漫画である。英語版ウィキペディアは連載期間を1983年9月13日から1988年8月8日までとし、全245話を数え、それが1984年3月9日から1989年3月10日にかけて全27巻にまとめられたと記す。フランス語版ウィキペディアも245話、全27巻をそのまま採っており、日本語版ウィキペディアは連載を1983年41号から1988年35号までとしている。累計発行部数は世界で1億部を超えるとされる。英語版とフランス語版のウィキペディアがそう書き、東京で開かれた40周年記念展のページも同じ桁数を挙げている。
この作品は二人組の仕事である。原作は武論尊(Buronson)、本名は岡村善行(Yoshiyuki Okamura)で、1947年6月16日、長野県の佐久に生まれた(英語版ウィキペディア、サイト Hokuto Legacy、名前と出生地についてはフランス語版ウィキペディア)。筆名は俳優チャールズ・ブロンソン(Charles Bronson)に似ていたことに由来すると、フランス語版と英語版のウィキペディアが述べている。作画は原哲夫(Tetsuo Hara)で、当時はごく若かった。SBBit に掲載されたインタビューによれば、連載が『ジャンプ』の人気ランキングで1位になったとき、原は22歳であった。最初の連載『鉄のドンキホーテ』は中途半端な失敗に終わった。MOVIE WALKER PRESS も同様に伝えており、編集者から絵柄を簡略化するよう求められたためだという。
この若い作画家を立て直したのは、編集者の堀江信彦(Nobuhiko Horie)である。MOVIE WALKER PRESS のインタビューによれば、堀江は古い中国の書物にある急所と必殺の技を土台にした格闘漫画を原に提案した。Goethe と SBBit も、指圧のツボを題材にした企画が持ち上がったという同じ場面を伝えている。原は1983年に『フレッシュジャンプ』に短編を発表し(MOVIE WALKER PRESS、Goethe、原についてのフランス語版ウィキペディア)、そのあと武論尊が原作を担当する週刊連載が定着していく。
原によれば、高校のころからブルース・リー(Bruce Lee)と松田優作(Yūsaku Matsuda)が好きで、二人の新作映画を見られない代わりに、自分の憧れの人を自分で描きたかったという。ケンシロウの着想はその願いから生まれた。さらに、自分の作風を探す前、最初から『マッドマックス2』(Mad Max 2)に着想を得ていたとも付け加えている。
— 原哲夫、二つのインタビューから発言を要約・言い換えたもの:MOVIE WALKER PRESS(連載40周年)· press.moviewalker.jp;Hokuto no Ken Official、30周年インタビュー · hokuto-no-ken.jp
『マッドマックス2』とのつながりは、本稿で最もよく裏づけられた点の一つである。30周年インタビューがそれを確認し、フランス語版ウィキペディアも触れており、原自身も、『マッドマックス:フュリオサ』(Mad Max : Furiosa)の公開に際してアニメイトタイムズ(Animate Times)が掲載した対談で、監督のジョージ・ミラー(George Miller)に直接そう語っている。舞台となる世界を、Génération Souvenirs が販売するDVDボックスの紹介文は「第2千年紀の終わり、核爆発が世界を滅ぼした」と要約しており、ADN の紹介文はそれを「199X年」に置いている。
この出発点が、その後のすべてを規定する。主たる原動力が、的確な一撃を受けて崩れる肉体であるような漫画は、夜の家族向けテレビ枠にはあつかいにくい素材である。東映とフジテレビがそれをどう処理したかは、次の章で見る。
1984年のシリーズ — 東映、フジテレビ、木曜の夜
TVアニメは、東映アニメーションがフジテレビと組んで制作した。日本語版ウィキペディア、アニメニュースネットワーク(Anime News Network、ANN)、allcinema、プラネット・ジュネス(Planète Jeunesse)、そしてシリーズのスタッフのデータベース(Seesaa)の記述が一致する。最初のシリーズは1話25分、全109話で、木曜の19時から19時30分に放送された。日本語版ウィキペディア、allcinema、テレビ記憶のサイト Kioku TV による。続く『北斗の拳2』が間を置かずに始まり、全43話、合わせて152話となる。これはフランス語版と英語版のウィキペディア、東映ビデオ、配信プラットフォームのADNが確認している。
日付は一週間の幅で食い違う。1984年10月11日は、日本語版ウィキペディア、英語版ウィキペディアとそのエピソード一覧、アニメニュースネットワーク、アニメイトタイムズ、データベースサイトの Seesaa が挙げている。10月4日は allcinema と、英語版・日本語版の Hokuto wiki の項目にある。二つの木曜はどちらもありうる。両方とも木曜日にあたるからである。最初のサイクルの終わり、1987年3月5日については争いがない。続編の開始は、日本語版ウィキペディア、英語版のエピソード一覧、Anisearch、Hokuto Legacy によれば1987年3月12日だが、英語版ウィキペディアと Hokuto wiki は13日としている。ところが1987年3月13日は金曜日であり、12日のほうが妥当である。放送は1988年2月18日に終わる。
シリーズは、第一部で漫画の第1話から第136話までを映像化している。英語版のエピソード一覧と Hokuto wiki による。第二部は天帝編と修羅の国編を扱うが、漫画の最後の話数までは達しない。漫画に追いついてしまわないよう、制作側は、とりわけ序盤にオリジナルのエピソードを加えた。Hokuto wiki とサイト RQ87 がそう述べている。素材の並べ替えもある。日本語版ウィキペディアと Hokuto wiki によれば、漫画の序盤の中心的な敵であるシンとの対決は第22話まで先送りされ、漫画ではシンのあとに戦う敵のうち何人かが、その部下になっている。
視聴率はよく記録されていない。日本語版ウィキペディアによれば、番組は関西テレビでしばしば20%を超え、フジテレビでは15〜17%と推定されていた。日本語版 Hokuto wiki の作品ページは最高視聴率を23.4%、平均を16.1%とし、前者と整合するものの、ぴたりとは重ならない。日本のあるアニメ専門ブログは、当初の20%から終盤の10〜12%への低下に言及しているが、データの出典を示していない。
放送網は狭かった。日本語版ウィキペディアによれば、同時放送をしていた局は8局だけで、北海道、仙台、福島、関西、岡山、福岡、佐賀、熊本の各局であった。ほかの局は時間をずらして放送していた。第78話から第82話は、5週連続の総集編にあたると、日本語版ウィキペディアは述べる。東映ビデオのサイトと突き合わせることもできる。そのブルーレイは4巻構成で、第1〜22話、第23〜57話、第58〜77話、第83〜108話を収めている。合わせて103話であり、ちょうど第78〜82話と第109話が除かれている(編集部の計算)。
複数の手による演出 — スタッフとスタジオ
クレジットの筆頭に立つのは、芦田豊雄の名である。1944年4月21日に千葉県で生まれ、2011年7月23日に没した(日本語版・英語版ウィキペディアによる)。1976年にスタジオライブ(Studio Live)を設立し(同じ資料)、第一部の全編でシリーズディレクターとしてクレジットされている。アニメニュースネットワーク、プラネット・ジュネス、allcinema、各ウィキペディアによる。1986年の劇場版も監督した。ところが、資料は、シリーズそのものへの関与は限られていたと述べる。日本語版ウィキペディアは、1987年の『月刊OUT』での芦田の発言として、自分の名はすべての話数にあるが、実際に演出したのは第1話と第23話だけだったと伝えており、アニメニュースネットワークも、話数演出として芦田に帰しているのは第1話と第23話だけである。
その周りで、仕事は分担されている。キャラクターは須田正己が描いた。アニメニュースネットワーク、プラネット・ジュネス、日本語版ウィキペディア、ピクシブ百科事典(Pixiv)がこれを裏づけ、アニメニュースネットワークは須田に15話の作画監督を帰している。音楽は青木望(アニメニュースネットワーク、プラネット・ジュネス、Seesaa、東映ビデオ)。プロデューサーは東映側の高見義雄(Yoshio Takami)で、アニメニュースネットワーク、日本語版ウィキペディア、Seesaa による。フジテレビ側の企画は中尾嘉伸(Yoshinobu Nakao)であり、日本語版ウィキペディアと Seesaa による。美術監督は、第1シリーズが中村光毅(Mitsuki Nakamura)、第2シリーズがサカモト・ノブヒト(Nobuhito Sakamoto)で(日本語版ウィキペディア、Seesaa)、音響監督はフクナガ・カンジ(Kanji Fukunaga)である(アニメニュースネットワーク、日本語版ウィキペディア、Seesaa)。
脚本の大半は、トダ・ヒロシ(Hiroshi Toda)が書いている。アニメニュースネットワークは70話の担当としており、プラネット・ジュネスと日本語版ウィキペディアも主要な脚本家の一人に数える。次いで、オオハシ・ユキヨシ(Yukiyoshi Ōhashi、アニメニュースネットワークによれば25話)、最初の回を書いた上原正三(Shōzō Uehara、アニメニュースネットワークによれば第1〜2話と第9〜10話。プラネット・ジュネスと Seesaa も第1話についてこの名を挙げる)、そして井上敏樹(Toshiki Inoue)が続く。話数演出では、アニメニュースネットワークが、マタノ・ヒロミチ(Hiromichi Matano)と梅澤淳稔(Atsutoshi Umezawa)をそれぞれ27話、カツマタ・トモハル(Tomoharu Katsumata)を第54、56、62話(第56話は Seesaa が確認)、板野一郎(Ichirō Itano)を第39話と第49話に数えており、これは共同編集による作画@wikiが板野に充てたページと符合する。
| 対象 | 担当 | 名前 | 裏づけ資料 |
|---|---|---|---|
| シリーズ · 1984〜87年 | シリーズディレクター | 芦田豊雄 | ANN、プラネット・ジュネス、allcinema、日本語版ウィキペディア |
| シリーズ · 第1、23話 | 演出 | 芦田豊雄 | 日本語版ウィキペディア、ANN |
| シリーズ | キャラクターデザイン | 須田正己 | ANN、プラネット・ジュネス、日本語版ウィキペディア、Pixiv |
| シリーズ | 音楽 | 青木望 | ANN、プラネット・ジュネス、Seesaa、東映ビデオ |
| シリーズ | プロデューサー | 高見義雄 | ANN、日本語版ウィキペディア、Seesaa |
| シリーズ | 企画(フジテレビ) | 中尾嘉伸 | 日本語版ウィキペディア、Seesaa |
| シリーズ · 第1部 | 美術監督 | 中村光毅 | ANN、Seesaa、日本語版ウィキペディア |
| シリーズ · 第2部 | 美術監督 | サカモト・ノブヒト | 日本語版ウィキペディア、Seesaa |
| シリーズ | 音響監督 | フクナガ・カンジ | ANN、日本語版ウィキペディア、Seesaa |
| シリーズ | 脚本 | トダ・ヒロシ | ANN、プラネット・ジュネス、日本語版ウィキペディア |
| シリーズ | 話数演出 | マタノ・ヒロミチ | ANN、日本語版ウィキペディア |
| シリーズ · 第39、49話 | 演出 | 板野一郎 | ANN、作画@wiki |
| 劇場版 · 1986年 | 監督 | 芦田豊雄 | 英語版ウィキペディア、映画.com、東映ビデオ、日本語版ウィキペディア |
| 劇場版 · 1986年 | 脚本 | 高久進 | 英語版ウィキペディア、映画.com、東映ビデオ |
| 劇場版 · 1986年 | 音楽 | 服部克久 | 英語版ウィキペディア、映画.com、東映ビデオ、日本語版ウィキペディア |
スタジオは、人名ほどには特定されていない。アニメニュースネットワークは、アニメーション制作を東映アニメーション、スタジオライブ、動画工房(Dōga Kōbō)に、背景をスタジオジャック(Studio Jack)に帰している。しかしスタジオライブは、日本語版と英語版のウィキペディアが述べるとおり芦田自身が設立した会社であり、この記載はもっともらしくはあるが、証明にはならない。アニメーターについては、アニメニュースネットワークの作画監督の一覧が最も完全である。サイトウ・ヒロノブ(Hironobu Saitō、11話)、アオシマ・カツミ(Katsumi Aoshima、7話)、オチ・カズヒロ(Kazuhiro Ochi、第59、71、90話)、ワダ・タクヤ(Takuya Wada)、カネコ・ヒロトシ(Hirotoshi Kaneko、第9話)、板野(第39、49話)、そして須田自身である。
血を隠す — 暴力の演出
制約は、社会問題となるより前に、放送局のほうから来た。日本語版ウィキペディアによれば、フジテレビは漫画の暴力にたいへん強い難色を示していた。ピクシブ百科事典(Pixiv)も同じことを伝えており、それによれば、局は東映に描写をやわらげるよう求めた。用いられた手段は演出上のものである。シルエット、逆光、画面の反転、写実性を弱めるために大きく描かれる敵(日本語版ウィキペディア)。血が白い光に置き換えられ、爆発の場面で肉体がシルエットで撮られること(Pixiv)。彩度を落とした色(英語版の Hokuto wiki の項目)。アニメニュースネットワークは、本作を「問題のある内容」が「顕著」な作品に分類している。雑誌『Animeland』は、シリーズを振り返る記事で、その考え方をこうまとめる。作品は原作の暴力を否定せず、演出のなかでそれを取り除くのであり、噴き出す血は、暗い背景に浮かぶ光の奔出になる。
とはいえ、日本でこのシリーズが衝撃的なものと受け取られたという見方には、ただし書きが要る。プロデューサーの高見義雄は、日本語版ウィキペディアによれば、直接の苦情は受けなかったと述べている。『ジャンプ』編集長の西村繁男(Shigeo Nishimura)も、編集部については同じことを言っている。それでも、全国の保護者団体(PTA)は1986年、本シリーズを「最も望ましくない番組」10本のうちに数えた(同じ資料。これを伝えているのはこの資料だけである)。
この演出は、一人の芸術家の仕事ではない。共同編集による作画@wikiが板野一郎に充てたページは、板野が演出し作画も監修した第49話が、基本デザインから大きく離れた丁寧な作画で注目されたと記している。作画者を扱う別の日本のブログは、1985年のある回についてのモトヤ・トシアキ(Toshiaki Motoya)の仕事を分析し、効果を正面から描くのではなく、その結果(破片、影響を受けた背景)によって見せていると指摘する。三つ目のブログは、レイの歴代の作画者を順に取り上げ、とくにアオシマ・カツミ(Katsumi Aoshima)を、その登場と死の場面で挙げている。この三つのページは、いずれもファンによる分析で、それぞれ孤立している。確定した事実ではなく、読み解きの手がかりを与えるにとどまる。
1986年の劇場版は別の論理に従う。劇場のために、ケンシロウとラオウの最初の対決を作り直したもので、日本語版ウィキペディアによれば、テレビよりはるかにやわらげられていない、あからさまに血なまぐさい描写を特徴とする。英語版ウィキペディアは、批評家がこの映画の暴力を非難したと伝え、プラネット・ジュネスと FulguroPop は、日本で暴力が過ぎると判断されたのち、検閲の効果によって手が加えられたと記している。FulguroPop は、国際版についてその詳細を述べる(ぼかされたカット、修正された場面、色フィルター)。イタリアのVHSは、それに対して、検閲の少ない版を保っていたとされる。FulguroPop(Granata Press、1993年)と英語版ウィキペディア(ぼかしのないイタリアの作業用コピー)がその方向を示している。
日本での声と音楽
ケンシロウの声は神谷明で、1946年9月18日に横浜で生まれた(英語版ウィキペディア)。アニメニュースネットワーク、日本語版ウィキペディア、allcinema、アニメイトタイムズ、東映ビデオが、その名をクレジットしている。ほかの主要な役は、山本百合子(Yuriko Yamamoto、ユリア)、古川登志夫(Toshio Furukawa、シン。アニメニュースネットワークによれば第1〜22話で、これはシリーズにおけるこの編の長さと一致する)、塩沢兼人(Kaneto Shiozawa、レイ)、土師孝也(Takaya Hashi、トキ)、内海賢二(Kenji Utsumi、ラオウ)が演じており、アニメニュースネットワーク、アニメイトタイムズ、東映ビデオ、日本語版 Hokuto wiki がこれらの名を挙げている。ナレーションは千葉繁が務め、2023年の展覧会のページは彼を伝説的と形容している。アニメニュースネットワークは97話を彼に帰し、Pixiv は、次回予告の語りの迫力が、ラオウ編にいたるまで増し、そこで声が裏返ると語る。
配役の一覧は、二つの役について食い違う。バットについて、アニメニュースネットワークは鈴木みえ(Mie Suzuki)を挙げる。IMDb は95話について一龍斎貞友(Teiyū Ichiryūsai)を挙げており(アニメイトタイムズも、一龍斎の姓を持つ名を別の読みで挙げている)、劇場版については、映画.comと東映ビデオが鈴木みえをクレジットしている。最初のナレーションについて、東映ビデオは銀河万丈(Banjō Ginga)と千葉を挙げ、日本語版 Hokuto wiki は千葉が第20話から引き継ぐと明記するが、Pixiv は、最初の予告についてカニエ・エイジ(Eiji Kanie)とクロダ・テツヤ(Tetsuya Kuroda)の名を挙げている。アニメニュースネットワークはさらに、第58〜68話のサウザー役を銀河万丈に帰している。
音楽面では、シリーズは第1〜82話で、クリスタルキング(Crystal King)が歌う「愛をとりもどせ!!」で幕を開け、エンディングは「ユリア…永遠に」である。第83話からは、KODOMO BAND が引き継いで「SILENT SURVIVOR」と「DRY YOUR TEARS」になる(日本語版ウィキペディア、アニメニュースネットワーク)。第2シリーズは、Tom Cat というグループの「Tough Boy」と「Love Song」を採る(日本語版ウィキペディア、日本語版 Hokuto wiki)。劇場版の音楽は服部克久(Katsuhisa Hattori)が担当し(英語版ウィキペディア、映画.com)、KODOMO BAND がエンディング曲と挿入歌を提供している(日本語版ウィキペディア、映画.com)。
フランスで — 放送と吹き替え
シリーズがフランスにやって来たのは1988年で、TF1の『クラブ・ドロテ』(Club Dorothée)の枠でのことだった。1987年から1997年まで放送された子ども向け番組で、AB Productions が制作している(英語版とフランス語版のウィキペディア、Lavisqteam)。題名は『Ken le survivant』とフランス語化された。開始日は資料によって異なる。プラネット・ジュネスは、最初の地上波放送を1988年8月31日とする。フランス語版ウィキペディアのミラーサイト Wikimonde は、この日付を参照として採り、吹き替えの節では1988年8月と述べる。フランス語版ウィキペディアの本文は、Figaronron や Paradoxe temporel と同じく10月とし、Génériques Télé は夏の終わりに言及し、ほかのページは1988年とするにとどめる。1988年8月31日は水曜日で、Alf.fr が挙げている枠の曜日にあたる。
シリーズは、大量購入の論理のなかに位置づけられる。Wikimonde(フランス語版ウィキペディアのミラーサイト)と Animeka によれば、編成担当者は日本のアニメのカタログを丸ごと買い付けていた。日本では十代の視聴者向けだった『Ken le survivant』は、ここでは子ども向け番組で紹介される(Allociné、フランス語版ウィキペディア、Alf.fr。ADN は現在、16歳以上の区分を表示している)。
SOFI社とフランス語版の声
第一部の吹き替えはSOFI社が手がけており、プラネット・ジュネス、RS Doublage、フランス語版ウィキペディア、そして『Vice』でのフィリップ・オグーズ(Philippe Ogouz)の証言がそう伝えている。オグーズは、ケンの声であると同時に吹き替えの演出も務めた(RS Doublage によれば第1〜91話)。彼は流れ作業のような仕事だったと述べる。語られるペースは食い違い、Hokuto Legacy のインタビューでは週に一度、1日で「4話か5話」、『Vice』では1日2話である。主要な配役は、資料のあいだで一貫している(プラネット・ジュネス、RS Doublage、フランス語版ウィキペディア)。フィリップ・オグーズ(Ken)、リュック・フロリアン(Luc Florian、Raoul。RS Doublage によれば第92〜109話ではアントワーヌ・トメ(Antoine Tomé)に交代)、ジャン=フランソワ・コプフ(Jean-François Kopf、シンとトキ)、ソフィー・ゴルメザノ(Sophie Gormezano、Julia)、パトリック・メス(Patrick Messe、レイ)、ジャッキー・ベルジェ(Jackie Berger、Bart)、ヴィルジニー・メリー(Virginie Méry、リン)である。ずっとのちにサウンドファクター(Soundfactor)が吹き替えた第92〜109話では、声が違う。Ken はフィリップ・ヴァルモン(Philippe Valmont)、Julia はマガリ・ローゼンツヴァイク(Magali Rosenzweig)、リンはマリー・ディオ(Marie Diot)である(プラネット・ジュネス、RS Doublage)。
原作から逸脱した吹き替え
フランス語版を特異なものにしているのは、自由を選んだことである。フランス語版ウィキペディア、Hokuto Legacy、『Vice』が伝えるフィリップ・オグーズの言によれば、制作陣はアニメをあまり好まず、暴力に耐えがたさを覚えていたが、続けるために台詞についての全面的な自由を得た。その結果は、即興と遊びの混合である。Hokuto Legacy のインタビューで、オグーズは、「コーヒーカップ」のように、課された一語を場面のなかに入れ込むゲームに言及している。フランス語版ウィキペディアは、ふざけた台詞の始まりを第22話とし、より真面目な吹き替えへの回帰を第80話からとしており、Génériques Télé も、起点が第22話であることを確認している。挙げられている例としては、フランス語版ウィキペディアの「Hokuto à viande」(直訳は「肉用のホクト」)、「Hokuto à pain」(「パン用のホクト」)、「Nanto de vison」(「ミンクのナント」)があり、同じ資料は、リュウガ(Ryuga)についての質問への答えとしてモンテリマール(Montélimar)が持ち出されたことも伝えている。『Lire pour écrire』では、「ホクト」の代わりに「hauts couteaux」(「高い包丁」)、「ナント」の代わりに「manteaux」(「コート」)となっている。ラオウの名は「Raoul」(ラウール)になり、Medspx はこれをおぞましいと評している。しかし、これこそがあらゆる場所で採用された名であり、プラネット・ジュネスと RS Doublage の配役表も同様である。
オグーズによれば、声優たちははじめ、番組が暴力的すぎるとして降りようとしたが、その後、マイクの前で台詞を書き直すことを提案し、局と規制機関がこの解決策を受け入れた。彼は「完全な即興」と語り、子どもたちが大好きだったと断言している。
— フィリップ・オグーズ、『Vice』と Hokuto Legacy から発言を要約・言い換えたもの · vice.com · hokutolegacy.com
中断、再開、欠けた話数
TF1での放送は第84話のあとで中断する。フランス語版ウィキペディア、Allociné、Figaronron、『Mes années 80-90』、Hokuto Legacy がそう書いており、ほとんどはこれを暴力への苦情の結果とみている。続く話数は1996年になってようやく、ケーブル局AB Cartoons で放送される(プラネット・ジュネスは最初の放送を1996年4月2日とする)。その数は、フランス語版ウィキペディア、Figaronron、『Mes années 80-90』では7話(第85〜91話)、Hokuto Legacy では12話(第85〜96話)である。結末にあたる第92〜109話は、のちにサウンドファクターが吹き替え、チャンネル Mangas で放送された。プラネット・ジュネスによれば2009年11月4日(Wikimonde によれば12月3日まで)で、吹き替えが完了したのは、Génériques Télé では「2009年に完了」、Hokuto Legacy、Figaronron、『Mes années 80-90』では2010年とされる。長らくフランス語では未公開だった第35話は、2005年になって、新しい声優によって吹き替えられた(Figaronron。RS Doublage はマルク・ブルトニエール(Marc Bretonnière)の名を挙げ、Alf.fr は、当初の放送にこの話がなかったことを指摘している)。第2シリーズは、フランス語に吹き替えられたことが一度もなく、字幕版でしか存在しない(フランス語版ウィキペディア、『Mes années 80-90』、Hokuto Legacy)。
フランス語版の主題歌はベルナール・ドゥニマル(Bernard Denimal)が歌っており、プラネット・ジュネス、Animag、Paradoxe temporel、Bide et Musique、Génération Souvenirs がその名を挙げる。Paradoxe temporel は、彼のアニメ主題歌を4曲(『Ken le survivant』、『Dr Slump』、『Cherry Miel』、『Galaxy Express』)しか数えておらず、Animag もこのリストを踏襲している。この二つの資料によれば、彼は1989年にABを離れ、2006年に引退した。2026年9月に亡くなった。
論争、検閲、受容
フランスの語りでは、『Ken le survivant』は『クラブ・ドロテ』が最初に経験した大きな騒動である。番組を扱うフランス語版ウィキペディア、Lavisqteam、Journal du Geek の特集は、論争の始まりを1989年とし、家族団体の抗議と、視聴覚の規制機関であるCSAの介入を挙げている。ABの対応は、番組を扱う英語版ウィキペディア、フランス語版ウィキペディア、Journal du Geek によれば、心理学者を雇い、「心理的カット」によってシリーズを手直しすることで、物語を変え、ときに数分を削るものだった。プロデューサーのジャン=リュック・アズレ(Jean-Luc Azoulay)は、『クラブ・ドロテ』全般についてこう述べている。心理学者のチームがすべてを見て、番組が暴力的すぎるときはカットを求めた(Amomama、アズレを引用)。話数も短縮された。Bide et Musique のあるコメント投稿者は、20分から5分になった話数に言及しているが、これは読者の証言であって、事実ではない。
この件に結びつく政治家は、ドゥー=セーヴル県選出の国民議会議員、セゴレーヌ・ロワイヤル(Ségolène Royal)である。著書『Le ras-le-bol des bébés zappeurs』は、1989年にロベール・ラフォン(Robert Laffont)社から出ている(ActuaBD。年は Twog、Lavisqteam、Planet が挙げている)。ActuaBD は37頁から、日本のシリーズに敵意を示す一節を引いている。「殴打、殺人、引きちぎられた首、感電した身体、おぞましい仮面、恐ろしい獣」。日本についてのブログ(Mon amour pour le Japon et Tôkyô)は、この本が『Metalder』、『Capitaine Power』、『Bioman』と並べて『Ken le survivant』をはっきり名指ししていると主張する。ところが、ActuaBD の記事には、参照した箇所に、この部分でのケンへの言及がない。三つの総括サイト(NLTO、Twog、Medium)は、『Ken le survivant』を論争の核心としている。
「殴打、殺人、引きちぎられた首、感電した身体、おぞましい仮面、恐ろしい獣。」
— セゴレーヌ・ロワイヤル、『Le ras-le-bol des bébés zappeurs』、Robert Laffont、1989年、37頁、ActuaBDによる引用 · actuabd.com
その後の経緯は、しばしば誤って語られる。Allociné は、シリーズが、Familles de France をはじめとする団体の圧力のもとで『クラブ・ドロテ』から姿を消し、司会者がニュース番組で公に謝罪しなければならなかったと書いている。しかし、最もよく裏づけられている謝罪は、1991年5月17日のCSAの決定第91-391号に由来するものである。これは、『クラブ・ドロテ』の二つの番組についてTF1に制裁を科したもので、1990年12月5日の『ドラゴンボール』の1回と、1991年1月3日の『Superboy』の1回が、「虐待とサディスティックな暴力の場面」を含むとされた(決定の本文。Pappers 経由)。フォーラム Geekzone のスレッドは、この声明が読み上げられたのを1991年5月28日としている。ほかの資料は、ドロテ(Dorothée)の20時のニュースでの謝罪を、1993年の『Très cher frère…』に結びつけている(Journal du Geek、Planet)。『Ken le survivant』を名指しするCSAの決定は、見つからなかった。
よく引かれる「1990年の論争」は、したがって、慎重に扱わなければならない。参照した資料で1990年のこととされているのは、『Muscleman』が、ナチスのものと判断された記号をめぐるCSAの介入を受けて打ち切られたこと(『クラブ・ドロテ』についてのフランス語版・英語版ウィキペディア、Lavisqteam)と、ヨーロッパ作品とフランス作品の放送割当を定めた法律により、日本のアニメの購入が減ったこと(同じウィキペディア、Medium)である。ケンについて繰り返し出てくる年は、1989年である。
1997年の『クラブ・ドロテ』の終了は、ときにセゴレーヌ・ロワイヤルのせいにされる。Twog、Lavisqteam、そして司会者と番組についてのフランス語版ウィキペディアは、この見方を退けている。司会者についてのページは、これを根拠のないうわさと形容しており、ABとの契約が更新されなかったのだという。Teammanga は逆に、ロワイヤルの行動が割当についての法律につながったと主張し、彼女が1991年に教育大臣に任命されたとするが、Twog は入閣を1992年としている。我々はこの二つの説を両立させることができず、因果関係は採らない。
長期的な受容は、反転である。2021年3月29日にADNで配信が始まったのを機に、Allociné は「カルトなアニメ」と語り、Génériques Télé は、非難されつつ愛された吹き替えが、シリーズの後世での評価に寄与したと述べる。即時の商業的成功については、資料が分かれる。Twog は、シリーズが大成功を収め、2年のあいだに複数のVHS、関連商品、シール帳が出たと語る。一方、Bounthavy の出版社へのインタビューは、AB Vidéo のカセット(1本に3話)が「それほどよくは売れなかった」と断言している。Medspx と Manga-news は、14〜15歳以上の視聴者を勧めている。
映画、続編、遺産、映像ソフト
映画は1986年3月8日に日本で公開された。東映の作品としてである(英語版ウィキペディア、映画.com、日本語版ウィキペディア、東映ビデオ)。監督は芦田豊雄、脚本は高久進(Susumu Takaku)で、ケンシロウとラオウの最初の対決を独自の版で描いている(英語版ウィキペディア:漫画の第72話まで)。上映時間は、映画.comでは110分、プラネット・ジュネスと FulguroPop では105分である。フランスでは、VHSが1992年(FulguroPop によればマンガ・ヴィデオ(Manga Vidéo))または1995年(プラネット・ジュネス)から流通し、その後、DVDが2001年に Mangas から、2008年4月10日に AB Vidéo から出た(プラネット・ジュネス)。吹き替えはSOFIで、ケンはフィリップ・オグーズ(プラネット・ジュネス、RS Doublage)、シンはダニエル・リュッソ(Daniel Russo。プラネット・ジュネス、FulguroPop)である。
アニメの派生作品は数多い。『新・北斗の拳』(Shin Hokuto no Ken)は、約1時間のOVA3本で、2003年から発売された(英語版ウィキペディア、プラネット・ジュネス)。続いて、映画シリーズ『真救世主伝説 北斗の拳』(Shin kyūseishu densetsu Hokuto no Ken)が、2006年から2008年にかけて、TMSエンタテインメント(TMS Entertainment)とノース・スターズ・ピクチャーズ(North Stars Pictures)のもとで作られた。全5作で、そのうちフランス語題は、『L'Ère de Raoh』(2006年3月11日)、『L'Héritier du Hokuto』(2007年4月28日、フランス語版は2010年2月17日)、『La Légende de Julia』(2007年2月23日)、『La Légende de Toki』(2008年3月26日)などである(英語版ウィキペディア、Wikimonde、プラネット・ジュネス)。
影響はアニメだけにとどまらない。英語版とフランス語版のウィキペディアは、シリーズが三浦建太郎(Kentarō Miura)の『ベルセルク』や、『ダブルドラゴン』のようなゲーム、そしてミーム文化に与えた影響を挙げており、「お前はもう死んでいる」(Omae wa mō shindeiru)という台詞は、2010年代に拡散する決まり文句になった。2023年には、六本木ヒルズの森アーツセンターギャラリー(Mori Arts Center Gallery)で、10月7日から11月19日まで展覧会が開かれ、原画400点以上が展示された(美術館のページと原哲夫のサイト)。そして2026年4月10日午前1時(日本時間)、つまり実際には11日に、TMSエンタテインメントが新しいシリーズを始めた。監督はマエダ・ヒロシ(Hiroshi Maeda)、ケンシロウ役はタケウチ・シュンスケ(Shunsuke Takeuchi)で、TOKYO MX とBS11で放送され、Amazon Prime Video が世界に配信する(アニメニュースネットワーク、Final Weapon、英語版ウィキペディア。Anime Anime と VL Media は10日を裏づけている)。
漫画の各版
フランスでは、漫画は1999年からJ'ai lu(ジェ・リュ)が刊行し(Medspx、fr-academic、フランス語版ウィキペディアのミラーサイト)、次いで、2008年5月からカゼ(Kazé)がアスカ(Asuka)のレーベルで全26巻の版を出し(Hokuto Legacy、fr-academic)、そして2022年10月12日からクランチロール(Crunchyroll)が全18巻で刊行している(ActuaLitté、Manga-news)。Allociné は、このほかにカゼの全14巻の豪華版を挙げている。
映像ソフト
日本では、152話のDVDボックスが2002年にユニバーサルミュージック(Universal Music)から、高精細のリマスター版が2008年にエイベックス(Avex)から出た(英語版ウィキペディア)。東映ビデオは、2019年12月4日に発売された4巻のブルーレイを出している(東映ビデオのサイト)。アメリカでは、ディスコテック(Discotek)が、2014年3月25日に全話のDVDボックスを(発売元の紹介ページ)、2017年10月31日にブルーレイを出しており、英語吹き替えは第1〜36話に限られる(アニメニュースネットワーク、英語版ウィキペディア)。
フランスでは、シリーズはまずAB VidéoのVHSを経て(Bounthavy)、次いでDVDになる。プラネット・ジュネスは、Mangas 版を2001年11月とし、AB Vidéo の最初のコレクターズボックス(無修正版、フランス語吹き替えと字幕付きオリジナル版)を2009年8月6日とする。フランス語版ウィキペディアは、2009年から2011年に6つのボックスがあったと述べる。二つのシリーズの全話は、2014年10月にブラックボックス(Black Box)から出ている(プラネット・ジュネスでは10月10日、ショップの Anime-store では16日)。第2シリーズは、そこでは字幕付きのオリジナル版でしか見られない。『Ken le survivant』は、ついに2021年3月29日からADNで配信されており(プラネット・ジュネス、Allociné)、2シーズン、152話で、フランス語版とオリジナル版がある(ADNのページ)。
未解明の点
以下は、参照した日本語資料からもフランス語資料からも確定できない、あるいは半分しか確定できない事柄である。
制作現場
主要な原画マンの実際の役割の大半は、これから記録されるべき状態にある。モトヤ、アオシマ、板野については、ファンのページしかなく、シリーズのアニメーター自身が白い血の技法を語ったインタビューも一つもない。スタジオライブ、動画工房、スタジオジャックの役割と、下請けの割合は、アニメニュースネットワークだけに拠る。イマザワ・テツオ名義のクレジットは見つからなかったが、この調査の当初の枠組みには、その名があった。第1話と第23話を超える芦田の関与の正確な割合は、1987年の彼の発言だけから知られるもので、我々はそれを読むことができなかった。
日本での放送
1984年10月4日か11日かという開始日、正確な視聴率、放送網の狭さ、放送の中断、そして1986年のPTAの順位への言及は、独立した二つ目の資料による確認ができなかった。
フランス
TF1での最初の回の正確な日付(1988年8月31日か10月か)、TF1での最初のサイクルの終了日、吹き替えの録音現場が1日に収録した話数、制作陣が台詞の自由を手にした時期(第6話か第22話か)、そして結末の話数がMangasで放送された日付(2009年か2010年か)は、矛盾している。INAのアーカイブと1988年から1990年の新聞は、利用することができなかった。『Ken le survivant』を名指しするCSAの決定は見つからなかった。ドロテの謝罪と「1990年の論争」の位置づけは、これから確定されるべきである。Nautiljon(調査の出発点)、AniDB、MyAnimeList のページは、アクセスを拒否されたか、うまくいかなかった。そのため、これらのスタッフや発売元のデータは使っていない。
証言
利用した唯一の直接の証言は、ケンの声であり吹き替えの演出も務めたフィリップ・オグーズ(1940〜2019年)のものである。最初のシリーズの他の声優のインタビューも、東映やフジテレビの関係者のインタビューも、見つからなかった。
SAKUGAARTは、こうした歩みを記録したいと考えている。日本で『北斗の拳』に携わった方(作画、背景、撮影、制作)、あるいはフランスで携わった方(吹き替え、翻案、編成、放送)、また当時の資料(カセット、雑誌、吹き替えの台本)をお持ちの方。ご希望に応じて秘密を厳守したうえで、編集部はお話をうかがえれば幸いである。