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リトル・エル・シドの冒険

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Rody-le-petit-Cid-リトル・エル・シドの冒険
Copyright Nippon Animation, BRB Internacional
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記事に誤りがございましたら、ぜひお知らせください。この作品に携わった方、当時の思い出や資料をお持ちの方からのご連絡もお待ちしております。

リトル・エル・シドの冒険 特集 — SAKUGAART

特集 · TVシリーズ · スペイン・日本合作 · 背景美術、制作現場、翻案 · 1980年 → 1984年

『リトル・エル・シドの冒険』

日本での題名:『リトル・エル・シドの冒険』 (Ritoru Eru Shido no bōken) · 仏題 Rody le petit Cid · スペイン語題 Ruy, el pequeño Cid · アニメーション:日本アニメーション (Nippon Animation) · スペイン側共同制作:B.R.B.インテルナシオナル (B.R.B. Internacional)

フランスで「ロディ(Rody)」といえば、十一歳の少年、フィルーという名のロバ、そしてティエリー・ル・リュロン(Thierry Le Luron)の歌である。だがこの小さなシドの制作の内実は、見かけほど単純ではない。シリーズはスペインのBRBに生まれ、日本アニメーションが手がけ、スペインでは1980年、フランスでは1982年に放送され、東京での放送は1984年になってようやく実現した。しかも日本側のクレジットには、背景美術として小林七郎の名が見える。本稿は、スタジオ、共同制作者、影の職人たちについて確かな事柄を切り分け、残りを「未解明の点」に回す。

翻案された伝説ロドリゴ・ディアス・デ・ビバール(Rodrigo Díaz de Vivar)、エル・シドの少年時代 (フランスの複数のデータベースでは、ギリェン・デ・カストロ(Guillén de Castro)の戯曲に拠るとクレジットされている)
TVシリーズ全26話 · カラー、4:3 · 1話23〜30分(資料により異なる)
スペインTVE1 · 第1話放送 1980年9月10日
日本テレビ東京 · 1984年2月6日〜3月12日 · 平日19時00分
制作 · スペインBRB (クラウディオ・ビエルン・ボイド/Claudio Biern Boyd) · テレビシオン・エスパニョーラ(Televisión Española)
アニメーション · 日本日本アニメーション
監督黒川文男 (Fumio Kurokawa)
美術監督(美術ボード)大山哲文 (Satoshi Oyama) · 小林七郎 (Shichirō Kobayashi)
フランスでの放送開始1982年10月13日 · TF1 (番組『Mer-cre-dis-moi tout』)

— I —

スペインのシリーズ、日本のスタジオによるアニメーション

まず、ある思い込みを解いておかなければならない。『リトル・エル・シドの冒険』は、厳密な意味での日本のシリーズではない。フランスのデータベースは、スペインと日本の合作という点で一致している。フランス語版ウィキペディアとそのミラーサイト、プラネット・ジュネス(Planète Jeunesse)、アニメガイズ(Animeguides)、そしてA suivreは、BRBと日本アニメーションの名を挙げる。スペイン語版・英語版ウィキペディアはこれにテレビシオン・エスパニョーラを加え、日本語版ウィキペディアは、スペインのB.R.B.インテルナシオナルと日本アニメーションの合作()としたうえで、製作として三つの組織、B.R.B.マーチャンダイジング・インテルナシオナル(B.R.B. Merchandising Internacional)、日本アニメーション、テレビ東京をクレジットしている。日本アニメーションがこのシリーズに充てている作品ページも、日本側については同じことを述べ、スペイン語版ウィキペディアのBRBの項は、シリーズが「日本アニメーションによって手がけられた」と明記している(編集部による訳)。

スペイン側の会社は、この時点ではまだ歴史が浅い。BRBは1972年、マドリード近郊のアルコベンダス(Alcobendas)に、マーチャンダイジングの代理店として生まれた。社名は三人の創業者、ティト・バスト(Títo Basto)、ホセ・ロドリゲス(José Rodríguez)、クラウディオ・ビエルン・ボイドの頭文字に由来すると、英語版・スペイン語版ウィキペディアは述べている。Radixは、同じ年の会社設立をビエルンに帰している。ビエルンは1940年にマヨルカ島のパルマに生まれ、2022年10月に没した(El Español、英語版ウィキペディア)。彼は『Ruy, el pequeño Cid』を自身の最初のアニメーションシリーズと見ており、El Españolも、これを「最初の制作作品」と呼ぶRadixも同様である。スペイン語版ウィキペディアのBRBの項は、1980年以降、同社が自社のシリーズを制作・販売するようになり、その第一作が『Ruy』だったと書く。Radixと英語版ウィキペディアのBRBの項も、これをオリジナル制作の始まりとしている。

日本アニメーションの役割は、いわば工房のそれである。アニメニュースネットワーク(ANN)と日本語版ウィキペディアは同社にアニメーションの制作を、スペイン語版ウィキペディアのBRBの項は番組を手がけたことを帰している。テレビシオン・エスパニョーラの役割はもっと曖昧である。英語版ウィキペディアとeldoblaje.comの作品ページは、これをスペインでの放送局(TVE1)としてシリーズに結びつけ、スペイン語版・英語版ウィキペディアは「協力」と述べている。テレビ東京については、eldoblaje.comが本来の配給元とし、日本語版ウィキペディアは製作に関わる組織の一つに数えている。そして日本アニメーションは、BRBがその後『D'Artacán』(1981年)と『Willy Fog』(1983年)でふたたび組んだ会社であり、英語版・スペイン語版ウィキペディアのBRBの項と、英語版ウィキペディアの日本アニメーションの項がこれを裏づけている。

日付出来事裏づけ資料
1972年スペイン BRBがアルコベンダスに設立される英語版ウィキペディア(BRB)、スペイン語版ウィキペディア(BRB)、Radix
1980年9月10日スペイン TVE1(La 1)で第1話を放送英語版ウィキペディア(シリーズ)、英語版ウィキペディア(1980年のスペインのテレビ)、プラネット・ジュネス
1981年フランス フランスのデータベースが制作年として採る年プラネット・ジュネス、Animeka、Manga Sanctuary、アニメガイズ
1982年10月13日フランス TF1の『Mer-cre-dis-moi tout』で初放送プラネット・ジュネス、アニメガイズ、Superloustic、anisong.fr、A suivre
1983年イタリア イタリア1(Italia 1)で放送開始Wikiital、Techprincess
1984年2月6日〜3月12日日本 テレビ東京で放送、全26話日本アニメーション、ANN、日本語版ウィキペディア、プラネット・ジュネス

この表は、各資料の年代の食い違いを説明してくれる。実際には矛盾はない。1980年はスペインでの放送年、1981年はフランスのデータベースが制作年として採る年、1984年は日本での最初の放送年である。黒川文男の英語版ウィキペディアは、フィルモグラフィーでこのシリーズを1980年に置き、同じ監督の日本語版ウィキペディアは1984年に置く。それぞれが自国を基準にしているのである。題名そのものも、国境を越えるたびに変わる。スペインでは『Ruy, el pequeño Cid』、フランスでは『Rody le petit Cid』、日本では『リトル・エル・シドの冒険』で、日本アニメーションの作品ページでは、その主人公の名がルイとされている。イタリアでは『Ruy, il piccolo Cid』である。Rody、Ruy、ルイ。一人の少年に、三通りの表記がある。

編集部注:いくつかの点は出典が一つしかない。BRBと日本アニメーションの関係の始まりを1975年とするのは英語版ウィキペディアのBRBの項だけで(合作に先立って日本アニメーションのシリーズを配給していたという)、一方Radixは、協力の始まりをシドの企画に置いている。編集部はどちらとも決めない。Radixはまた、このシリーズは当初から大きな成功を収めたわけではなかったと書くが、スペイン語版・英語版ウィキペディアは子どもたちの間での大成功と述べる。二つの評価は、どちらも数字で裏づけられていない。テレビシオン・エスパニョーラが共同制作者、発注者、単なる放送局のいずれであったのかは、参照した資料のどれにも説明がない。最後に、英語版ウィキペディアのクラウディオ・ビエルンの項は生年月日を1940年11月21日、没年月日を2022年10月17日とするが、El Españolは82歳で亡くなったと伝えており、この生年月日ではそうはならない。そこで編集部は「1940年」と「2022年10月」だけを残した。

— II —

誰が何を担ったか — スペイン、日本、ヨーロッパ

合作では、同じ職掌でも、どこから見るかによって意味が異なる。以下の表は、本作について、日本側でクレジットされている事項、スペイン側に属する事項、そしてヨーロッパの他の地域に由来する事項を切り分けたものである。まず見えてくるのは日本側の指揮系統で、監督()の黒川文男、脚本()の柏倉敏之(Toshiyuki Kashikura)、キャラクターデザインの関修一(Shūichi Seki)、制作の中島順三(Junzō Nakajima)である。日本アニメーション、日本語版ウィキペディア、プラネット・ジュネスのクレジットは、主要な点で一致している。

担当名前側裏づけ資料
監督黒川文男日本日本アニメーション、日本語版ウィキペディア、フランス語版ウィキペディア、プラネット・ジュネス、アニメガイズ
脚本柏倉敏之日本日本アニメーション、日本語版ウィキペディア、プラネット・ジュネス、Animate Times、英語版ウィキペディア(綴りはKushikura)
脚本のスペイン語翻案ホアキン・アミチャルティス(Joaquín Amichartis)スペイン英語版ウィキペディア、フランス語版ウィキペディア
キャラクターデザイン関修一日本日本アニメーション、日本語版ウィキペディア、プラネット・ジュネス、Animate Times
演出・絵コンテ蔭山康生(Yasuo Kageyama)、奥田誠治(Seiji Okuda)、日下部光雄(Mitsuo Kusakabe)、楠葉宏三、黒川文男日本日本アニメーション、日本語版ウィキペディア、プラネット・ジュネス(スタッフ詳細表)
美術監督大山哲文、小林七郎(美術ボード)日本日本アニメーション、日本語版ウィキペディア、プラネット・ジュネス(作品ページとスタッフ詳細表)
背景潤成実業(ANNでは「Yoon Sung」)、大山哲文日本日本アニメーション、日本語版ウィキペディア、ANN
現像東京現像所(Tokyo Laboratory)日本日本アニメーション、ANN
制作中島順三日本日本アニメーション、プラネット・ジュネス、英語版ウィキペディア
音楽グイド・デ・アンジェリス、マウリツィオ・デ・アンジェリス(Guido and Maurizio De Angelis)イタリアフランス語版ウィキペディア、日本語版ウィキペディア、プラネット・ジュネス、ANN、Discogs
スペイン語吹き替えマヌエル・ペイロ(Manuel Peiró、演出と調整)、シネソン(Cineson)スタジオ、マドリードスペインeldoblaje.com、ANN
フランス語吹き替えスタジオSOFIフランスプラネット・ジュネス(作品ページとキャスト表)、アニメガイズ、フランス語版ウィキペディア(SOFI)

職掌の地理的な振り分けは、読み取れるものの不完全である。日本側の名前が担っているのは、他の国であれば「制作の現場」と呼ばれるであろう仕事、すなわちキャラクターデザイン、演出、背景、フィルムの現像である。スペイン側の仕事は、翻案の項に読み取れる。英語版ウィキペディアは、アミチャルティスに任された「スペイン語翻案」に触れ、フランス語版ウィキペディアは、アミチャルティスとペイロを、柏倉とともに脚本家に数えている。ペイロはまた、eldoblaje.comとANNによればスペイン語吹き替えの演出者であり、したがって、彼に元の脚本の書き手としての役割を見るのは控えるべきだろう。

音楽はイタリアからやって来た。グイドとマウリツィオのデ・アンジェリス兄弟は、イタリアの音楽家で、英語版ウィキペディアは『D'Artacán』と『Willy Fog』の主題曲にも彼らを結びつけている。本作については、五つの資料がその名をクレジットしている。各資料が「スペインと日本」の合作と謳う以上、ここでのヨーロッパにはイタリアも含まれることになる。音楽によって、そしてイタリア1でのイタリア独自の放送によって。

監督
黒川文男
Fumio Kurokawa · 日本アニメーション
脚本
柏倉敏之
Toshiyuki Kashikura
キャラクターデザイン
関修一
Shūichi Seki
美術監督
大山哲文
Satoshi Oyama · 美術ボードおよび背景
美術監督
小林七郎
Shichirō Kobayashi · 美術ボード
制作
中島順三
Junzō Nakajima
音楽
グイド・デ・アンジェリス、マウリツィオ・デ・アンジェリス
Guido and Maurizio De Angelis · イタリア
スペイン側制作
クラウディオ・ビエルン・ボイド
Claudio Biern Boyd · BRB
編集部注:キャラクターデザインをミヤタ・ナオミ(Naomi Miyata)に帰しているのはフランス語版ウィキペディアだけで、日本アニメーション、日本語版ウィキペディア、プラネット・ジュネス、Animate Timesは関修一と書いている。編集部は後者の四資料に従う。プラネット・ジュネスだけが、作画監督として三人、すなわちオガワ・タカオ(Takao Ogawa)、サカイ・アキオ(Akio Sakai)、スズキ・ミツル(Mitsuru Suzuki)を挙げ、さらにジェラール・サルヴァ(Gérard Salva)によるフランス語版の翻案と、エグゼクティブ・プロデューサーとしてのモトハシ・コウイチ(Kōichi Motohashi)を挙げている。モトハシは、英語版ウィキペディアの日本アニメーションの項が、1975年のスタジオ創業者としている人物である。これらの点は、他の資料と突き合わせられていない。楠葉宏三の読みとして「Kusuba」を挙げるのはプラネット・ジュネスだけ(「Kôzô Kusuba」)で、Wikiitalは「Kôzô Kuzuha」なる人物を脚本家としているが、おそらく混同であろう。大山哲文の「Satoshi」という読みも、プラネット・ジュネスだけが示している。デ・アンジェリス兄弟がイタリア人であることと、『D'Artacán』『Willy Fog』との関わりは、英語版ウィキペディアだけが記録している。さらにANNの項目は、他の資料のないまま、クレジットされていない効果音と音響制作(Fizz Sound Creation、Audio Planning U)を挙げている。

— III —

背景美術 — 小林、大山、下請けの背景

日本側のクレジットが特異な様相を帯びるのは、ここからである。日本アニメーション、日本語版ウィキペディア、プラネット・ジュネス(作品ページとスタッフ詳細表の両方)は、の欄に二つの名を挙げている。大山哲文と小林七郎である。この肩書は、通例のではない。強いて言い換えれば「背景設計のためのボード」といったところだが(編集部による言い換え)、その範囲を明らかにした資料は、参照した限りでは存在しない。プラネット・ジュネスは、単に二つの名を美術監督の項に並べている。

小林の名は意外である。日本側の二つの資料は同じ名を同じ文字で書き、プラネット・ジュネスは「Shichirô Kobayashi」とローマ字化している。したがって、見たところ、日本語版ウィキペディアがその経歴を伝える背景画家と同一人物である。1932年8月30日生まれ、2022年8月25日没。その項目には、この時期の仕事が列挙されており、『あしたのジョー2』(1981年)、『SPACE ADVENTURE コブラ』(1982年)、『魔法の天使クリィミーマミ』(1983年)、『Gamba』(1984年)などが並ぶが、本作は挙がっていない。つながりはありそうだが、証明はされていない。1980〜1984年のスペイン・日本合作シリーズに背景の巨匠が加わっていたことは、シリーズのクレジットのなかでしか読み取れない。

背景の巨匠が日本側のクレジットに名を連ねながら、その人の経歴の項には、このシリーズの名がない。

背景そのものは、二つの組織に帰されている。日本語版ウィキペディアと日本アニメーションは、潤成実業と大山をクレジットしている。ANNは「Backgrounds: Yoon Sung」と書いており、これは同じ会社を別の表記で指しているように見えるが、編集部には確認できなかった。日本語版ウィキペディアはさらにトランスアーツ(「Trans Arts」)を加え、背景と原画のクレジットとしているが、この最後の項目は他に裏づけがない。注目すべきは、子ども向けシリーズの背景が、こうして下請けの連鎖になっているという点である。背景の専門会社、美術の責任者、そしてフィルムを処理する現像所、東京現像所(Tokyo Laboratory)である。日本アニメーションとANNによる。

この作品の「視覚」について言えることは、依然として乏しい。文字資料は、色調についても、想像上のカスティーリャの絵画的な参照元についても、小林のボードがどのように描かれた背景へと移されたかについても、何も記していない。参照したスペインの批評やブログが語るのは物語と人物のことで、背景ではない。この作品の姿は、クレジットが描く姿にとどまる。

編集部注:小林七郎の生没年月日(1932年8月30日、2022年8月25日)は、日本語版ウィキペディアだけに拠っている。同項の作品一覧は網羅的ではなく、本作が載っていないことは、関与がなかったことの証明にはならない。クレジットの「小林」と日本語版ウィキペディアの背景画家とが同一人物であるという判断は、文字が同じであることと、プラネット・ジュネスのローマ字表記に依拠している。大山哲文の仕事を記述した資料も、彼と小林との間の役割分担を説明した資料も、編集部は見つけられなかった。

— IV —

『リトル・エル・シドの冒険』をつくる — テレックス、絵コンテ、声

1980年に、マドリードと東京にまたがるシリーズを、どのようにして作るのか。クラウディオ・ビエルン・ボイドがブログ『El Rincón del Taradete』に応じたインタビューは、日本のスタジオとの仕事について、その規模感を伝えている。要約すれば、通信手段がなかったために制作は非常に困難で、ファクスもインターネットも携帯電話もなく、あるのは画像を送ることのできないテレックスだけだった。

ビエルンの語るところでは、出発点となる素材のすべて(キャラクター、デッサン、背景、資料、脚本、絵コンテ)をスペインで作り、そのうえで制作が行われる国に現地へ人員を派遣し、ポストプロダクションのために作業をスペインへ戻したという。チームは約350人の専門家で、1シリーズにつき最低2年の作業を要したと見積もっている。

— クラウディオ・ビエルン・ボイド、『El Rincón del Taradete』掲載のインタビュー(発言は要約・言い換え) · elrincondeltaradete.blogspot.com

この一般的な記述は、慎重に扱わなければならない。インタビューは『Ruy』とその後の制作とを区別しておらず、スペインで作られた「デッサン」が、日本側のキャラクターデザインや背景のクレジットとどう結びついていたのかも述べていない。近縁のシリーズが、似た仕組みを記録している。英語版ウィキペディアの『D'Artacán』の項は、プリプロダクションがスペインで、ルイス・バジェステル(Luis Ballester)の指揮のもと、ビエルンが脚本を担当して行われ、ポストプロダクションが東京の日本アニメーションの施設で、三人の翻訳者が日本語に訳したスペイン語の脚本をもとに行われたと説明している。本作については、そのようなことは何も記録されていない。したがって、この制作方式は比較の材料にとどまる。

日本側では、指揮は一人の古参に委ねられている。黒川文男は監督としてクレジットされており、日本語版ウィキペディア、英語版ウィキペディア、日本アニメーション、プラネット・ジュネスがこれを裏づける。日本アニメーションと日本語版ウィキペディアによれば、彼は絵コンテと演出の担い手の一人でもある。日本語版・英語版ウィキペディアは、彼が『科学忍者隊ガッチャマン』(1972〜1974年)と『アタックNo.1』(1969〜1971年)を監督したことを挙げ、英語版ウィキペディアはさらに、BRBのその後のシリーズである『Willy Fog』と、『小公女セーラ』(仏題『Petite Princesse Sarah』、英題『Little Princess Sara』)の名を挙げている。つまり、小さなシドは、長丁場の翻案作品と合作に慣れた日本アニメーションの幹部に託されたのである。

キャラクターデザインの関修一は、日本側の顔ぶれのもう一人の主要人物である。Artcafeのサイトに載るプロフィールによれば、彼は日本アニメーションの『世界名作劇場』シリーズに携わった。英語版ウィキペディアの『D'Artacán』の項も、同作のキャラクターデザインを彼に帰している。つまり、同じ作画家がBRBの二つの作品に登場するわけである。

作品はさらに、声によって支えられる。日本では、日本アニメーションとAnimate Timesが公開しているキャストが、ルイを渡辺菜生子(Naoko Watanabe)、テレサを坪井章子(Akiko Tsuboi)、フェルナンド王をあずさ欣平(Kinpei Azusa)としており、英語版ウィキペディアがこれを裏づけている。柴田秀勝と八奈見乗児も、この配役に名を連ねる。スペインでは、eldoblaje.comとスペイン語版ウィキペディアが、ルイ役をアナ・アンヘレス・ガルシア(Ana Ángeles García)、ヒメナ役をマティルデ・ビラリニョ(Matilde Vilariño)とし、吹き替えはマドリードのシネソンで収録された。

最後に、日本での放送日程は読み取りやすい。日本語版ウィキペディアは、テレビ東京系の各局での平日放送と述べ、日本アニメーションは月曜から金曜の19時00分、30分枠と明記している。1984年2月6日から3月12日までは、数えて26営業日である。1日1話で、全話がわずか5週間で放送されたことになる。この計算は編集部によるもので、各資料が挙げる全26話という数字と合致する。

編集部注:英語版ウィキペディアはスペイン語版のナレーターをクラウディオ・ロドリゲス(Claudio Rodríguez)とし、eldoblaje.comはホセ・マリア・コルデロ(José María Cordero)とする。編集部はどちらとも決めない。黒川文男の生没年月日(1932年10月20日、2024年4月10日)、関修一の経歴(1946年生まれ、エイケン(Eiken)入社)、そしてArtcafeのプロフィールがクレジットの人物と同一の作家に関するものであるという点は、それぞれ一つの資料にしか拠っていない。ビエルンのインタビューはブログ編集部による要約であり、編集部は音声を聞くことも、正確な言葉遣いを確かめることもできなかった。どの話数の背景を誰が描いたのか、またセルがどこで彩色され撮影されたのかを述べた資料は、参照した範囲に一つもない。

— V —

エル・シド伝説、少年時代篇

ロドリゴ・ディアス・デ・ビバール、通称エル・シドは、1043〜1099年ごろの人物である。英語版ウィキペディアとプラネット・ジュネスがこの幅を示し、前者は彼がブルゴスの近くのビバールに生まれたと付け加える。ディエゴ・ライネス(Diego Laínez)の子であり(英語版ウィキペディア、ギリェン・デ・カストロの戯曲を扱うスペイン語版ウィキペディア)、カスティーリャ王フェルナンド1世(Ferdinand Ier)に仕えた。フランス語版ウィキペディアは、この王をシリーズの登場人物として挙げている。その伝説は、ロマンセと年代記の伝統に養われており、スペイン語版ウィキペディアはその起源を13世紀にさかのぼらせる。また、英語版ウィキペディアがスペイン中世の偉大な叙事詩とする『Cantar de mio Cid』にも養われている。

シリーズが翻案するのは、武将の武勲詩ではなく、想像上の少年時代である。フランス語版ウィキペディアとそのミラーサイト、プラネット・ジュネス、Manga-Newsは、物語について一致している。十一歳のロディは、父のような騎士になることを夢見て、教育のために修道院に預けられ、そこでいたずらを重ねたのち、修道士たちのもとを離れて冒険に出る。供はロバのフィルー、いとこのアルバル(Alvar)、そしてロサノ伯爵(Lozano)の娘シメーヌ(Chimène)という少女である。スペイン語版ウィキペディアとAnimate Timesは、その舞台を、11世紀のカスティーリャにおけるエル・シドの少年時代としている。日本語版ウィキペディアは、この企画を、父に劣らず気高い騎士になることを夢見る少年を描く壮大な物語、舞台は11世紀のカスティーリャ、とまとめている(編集部による言い換え)。

フランスの複数のデータベースは、この作品がギリェン・デ・カストロの戯曲に基づくとしている。フランス語版ウィキペディアのミラーサイトは『Les Enfances du Cid』に言及し、アニメガイズはギリェン・デ・カストロの「原案」とし、プラネット・ジュネスとAnimekaは「Ghilhem de Castro」と綴る。スペイン語の題を『Las mocedades del Cid』というこの戯曲は、スペイン語版ウィキペディアによれば1605年から1615年のあいだに書かれ、少なくとも12のロマンセと16世紀の複数の年代記を溶かし込んでいる。筋立ては名誉と愛を対立させる。ディエゴ・ライネスはヒメナの父ロサノ伯爵に平手打ちされ、ロドリゴは愛を犠牲にしてその仇を討たねばならない。

両者の重なりは一目瞭然である。シリーズはロサノ伯爵とその娘シメーヌ(スペイン語ではヒメナ)を取り入れており、フランス語版ウィキペディアのミラーサイトとスペイン語版ウィキペディアの戯曲の項によって、両者を結びつけることができる。だが、この対比は編集部のものであり、シリーズが戯曲、ロマンセ、『Cantar』から何を借りているのかを、話ごとに述べた資料は、参照した限りでは一つもない。このやり方は、ビエルンが自ら掲げる論理に連なるものである。El Españolも『El Rincón del Taradete』のインタビューも、彼が世界文学の大古典、すなわち国際的に知られ、したがって売りやすい作品の翻案に力を入れていたことを示している。

編集部注:したがって、伝説の翻案の実際の姿は確定していない。データベースはギリェン・デ・カストロの戯曲を挙げるが、『Cantar』をシリーズの素材として挙げる資料は一つだけ(英語版ウィキペディアの『D'Artacán』の項)であり、Techprincessは単独で、脚本は史実を反映しておらず、ルイ(Ruy)の冒険は創作で、子ども向けに暴力は抑えられていると書く。脚本家の柏倉の方法を述べた資料は、一つもない。劇作家の名の綴りは、「Guillén de Castro」(スペイン語版ウィキペディア)、「Ghilhem de Castro」(プラネット・ジュネス)、「De Castro Ghilhem」(Animeka)とまちまちである。漫画ブログのCómics Javierは単独で、各話の冒頭にフェルナンド1世の遠征についての歴史的な振り返りが置かれていると書く。フランス語版の各話の題(「Un village nommé Vivare」から「La Victoire」まで)は、フランス語版ウィキペディアにしか見られず、突き合わせは行われていない。

— VI —

フランスでのロディ — TF1、SOFI、ティエリー・ル・リュロン

シリーズがフランスに上陸したのは1982年10月13日、TF1の子ども向け番組『Mer-cre-dis-moi tout』の枠である。この日付、あるいはこの月を挙げる資料は五つあり、プラネット・ジュネス、アニメガイズ、A suivre、Superloustic、anisong.frがそれにあたる。このうち最後のものは「1982年10月」とだけ記している。水曜のこの番組は、フランス語版ウィキペディアによれば、コーナーとアニメを組み合わせた子ども向けの番組だった(章末の注を参照)。

吹き替えはスタジオSOFIが担当した。プラネット・ジュネス(作品ページとキャスト表)とアニメガイズがこれを示しており、SOFIを扱うフランス語版ウィキペディアも、そのカタログにこのシリーズを挙げている。プラネット・ジュネスとフランス語版ウィキペディアが突き合わせている声のキャストは、ジャッキー・ベルジェ(Jackie Berger、ロディ)、ジョエル・フォシエ(Joëlle Fossier、シメーヌ)、アンリ・ラビュシエール(Henri Labussière、国王と修道院長)、ロジェ・カレル(Roger Carel、ザカリアス〔Zackarias〕)、フランセット・ヴェルニヤ(Francette Vernillat、アルバルとアベン〔Aben〕)、ジャック・ベルティエ(Jacques Berthier、ロディの父ディエゴ)、そしてナレーターのC・ダセ(C. Dasset)である。アニメガイズは、この一覧の最初の五人の名を裏づけている。

歌は残った。フランス語版の主題歌はティエリー・ル・リュロンが歌っており、フランス語版ウィキペディア、プラネット・ジュネス、Superloustic、anisong.fr、Discogsにその記載がある。レコードはフィリップス(Philips)の45回転盤、品番6010 607で、Discogs、Encyclopédisque、Superlousticによれば1982年のものである。音楽はデ・アンジェリス兄弟によるもので、SuperlousticとDiscogsがそれを彼らに帰しており、anisong.frは、このフランス語版主題歌がフランスでの創作ではなく、グイドとマウリツィオ・デ・アンジェリスによるスペイン語版主題歌の翻案であると明記している。ティエリー・ル・リュロンのフランス語版・英語版ウィキペディアは、この主題歌の録音を1981年としている。

再放送は、各種の一覧から読み取れる。TF1、M6、フランス5(France 5)は、Animeka、A suivre、フランス語版ウィキペディアが挙げている。

フランスの外でも、シリーズは歩みを続ける。イタリアは1983年にイタリア1で(Wikiital、Techprincess)、日本は1984年にテレビ東京で受け取った(第I章を参照)。一方、受容については記録が乏しく、参照した資料は視聴率も当時の批評も伝えていない。

編集部注:フランスに関する情報のいくつかは、出典が一つしかない。1985年7月1日のTF1での再放送、1988年1月9日のM6での再放送、2018年6月26日のYouTubeへの公開を挙げるのは、プラネット・ジュネスだけである。番組『Graffi'6』(M6)、『Midi les Zouzous』(フランス5、2005年)、『Croque vacances』(TF1)、フィギュア、そして1982年のプロモーション用テントを挙げるのは、フランス語版ウィキペディアだけである。『Mercredi-moi tout』のフランス語版ウィキペディアだけが、この番組で本作が『Rémi sans famille』とともに二つの新番組のうちの一つに数えられたこと、番組はクリストフ・イザール(Christophe Izard)が司会を務め、人形が登場し、1982年2月17日から1983年6月29日まで放送されたことを書いている。SOFIのフランス語版ウィキペディアだけが、この会社の沿革を記している(1964年9月25日にピエール・サルヴァ(Pierre Salva)が創業、2009年3月31日に清算)。anisong.frだけが、主題歌のスペイン語の原版をコミノ(Comino)が歌っていると記している。vl-mediaの記事だけが、2022年11月に、75分のNetflix版に触れている。オリジナル版の字幕付きで、ジャッキー・ベルジェの声もル・リュロンの主題歌もなく、また、シリーズがめったに再放送されなかったことも記している。Discogsだけが、45回転盤のB面をインストゥルメンタル版としている。ベルギーでの放送は、フランス語版ウィキペディアが「Lollipop」、A suivreが「La Une」としており、ケベック(ラジオ・ケベック、Radio-Québec)での放送はフランス語版ウィキペディアにしか言及がない。イタリア語吹き替え(スタジオ・メラク・フィルム、Merak Film)とオリバー・オニオンズ(Oliver Onions)による最初のイタリア語主題歌は、Wikiitalにしか拠っていない。レオン(León)の第1回歴史映画祭の特別賞(1984年、スペイン語版ウィキペディアのBRBの項)と韓国での放送(1984年10月〜1985年5月、ANN)は、孤立した情報である。主題歌の録音(ウィキペディアによれば1981年)とレコードの日付(1982年)との隔たりは説明されていない。フランス語版主題歌の歌詞の作者は、編集部の資料のなかには見つからなかった。

— VII —

ソフトと遺産

映像ソフトとしては、まずカセットで出た。フランス語版ウィキペディアとプラネット・ジュネスは1980年代のVHSに言及し、プラネット・ジュネスだけが発売元としてエメラ・ヴィデオ(Héméra Vidéo)とジルダス・ヴィデオ(Gildas Vidéo)の名を挙げる。DVDは2000年代にデクリック・イマージュ(Déclic Images)から出たと、プラネット・ジュネスとManga-Newsは述べている。フランス語版ウィキペディアは4枚組のボックスを二つとし、Manga-Newsは「4 DVD版」を紹介していて、その第2巻の発売は2009年5月19日、全体がフランス語吹き替えである。プラネット・ジュネスは、同じ発売元からの発売を2004年11月としている。Animekaはさらに、DVDの発売元としてケロ・ヴィデオ(Kero Vidéo)とマンガ・ディストリビューション(Manga Distribution)を挙げている。

遺産の多くは、BRBのものである。スペイン語版ウィキペディアのBRBの項とRadixによれば、このシリーズは、古典の翻案という長い道程の第一歩である。英語版・スペイン語版ウィキペディアのBRBの項によれば、日本アニメーションとBRBは、『D'Artacán』(1981年)、『Willy Fog』(1983年)、『Fútbol en acción』(1981年)で協力関係を更新している。スペイン側では、ブログCómics Javierが、関連商品(出版社フェール(Fher)のコミック、コレクション用シールのアルバム、カードゲーム、絵本)を挙げているが、他に裏づける資料はない。

参照した資料は、視聴者の記憶のなかで本作がどのような位置を占めているかについて、売上の数字も当時の証言も伝えていない。『SAKUGAART』の読者にとってこのシリーズは、ヨーロッパの企画が日本のスタジオに託された一つの典型例であり続ける。そのクレジットのうち最も雄弁なのは、背景美術のものである。

編集部注:DVDの発売時期は食い違っている(プラネット・ジュネスは2004年11月、Manga-Newsは第2巻が2009年5月)。連続する二つのボックスである可能性もあるが、それを立証する資料はない。発売元のエメラ・ヴィデオとジルダス・ヴィデオ(VHS)、ケロ・ヴィデオとマンガ・ディストリビューション(DVD)は、それぞれ一つの資料にしか出てこない。スペイン語版ウィキペディアはシリーズの総集編映画に触れているが、詳細はない。それがvl-mediaの言う75分版と同じものかどうか、編集部には分からない。

— VIII —

未解明の点

影の仕事を扱う特集は、いくつかの断片を、影のなかに残したままにする。以下は、参照したスペイン、日本、フランス、イタリアの資料からは確定できない、あるいは半分しか確定できない事柄である。

制作現場

色彩設計()と仕上()、すなわちセルの彩色の工程は、参照したどの資料にも記載がない。日本アニメーション、日本語版ウィキペディア、プラネット・ジュネス、ANNは、その担当者を挙げていない。また、原画マン、五人の演出家のあいだでの各話の割り振り、という欄の正確な範囲、大山哲文の正確な役割、クレジットにおける「Trans Arts」(トランスアーツ)の性格、そしてANNの「Yoon Sung」が日本側の資料にある潤成実業と本当に同じものなのかどうかも、分かっていない。キャラクターデザインをミヤタ・ナオミに帰す記述は、他に例がなく、説明が必要なままである。

製作

本作におけるマドリードと東京の実際の分担は、記録されていない。ビエルンが一般論として述べること(資料、デッサン、背景、絵コンテをスペインで作る)は、日本側のクレジットと重ならず、セルがどこで彩色されたのかも分からない。テレビシオン・エスパニョーラが何をもたらしたのか、なぜシリーズが1984年になってようやく日本に届いたのか、小林がここでコンサルタント、プロジェクトの責任者、ボードの設計者のいずれとして働いたのかも分からない。下請けスタジオの数、予算、スペインと日本での視聴率は、数字で示されていない。

伝説と脚本

柏倉が実際にどの作品を素材としたのか(ギリェン・デ・カストロの戯曲、ロマンセ、『Cantar』)、また各話がそれからどの程度離れているのかは、確定できなかった。登場人物の名は国ごとに異なる(Ruy、Rody、ルイ。Jimena、Chimène。Laínez、Diego Diaz)が、これについての研究はない。日本版のオープニングとエンディングは、読んだどのページにも載っていない。

フランス

このシリーズの吹き替えの演出者(プラネット・ジュネスが挙げるのは翻案者だけである)も、フランス語版主題歌の作詞者も、特定できなかった。INAのアーカイブは利用できなかった。TF1での視聴率、最初の放送の正確な終了日、カットの有無も分からない。シリーズの批評面での受容は、フランスでもスペインでも、いくつかのブログに残る思い出を除けば、記録されていない。

証言

黒川、関、大山、小林といった日本側スタッフの誰かが、この作品について語ったインタビューは、一つも見つからなかった。制作について証言と呼べるのは、ビエルンのものだけで、それも一般的な内容にとどまる。『SAKUGAART』は、こうした人々の歩みを記録に残したいと考えている。もしあなたが『リトル・エル・シドの冒険』に、日本で(背景、演出、仕上、撮影)、スペインで(翻案、吹き替え、制作)、あるいはフランスで(吹き替え、翻案、放送)携わった方であれば、また、当時の資料(クレジット、工程表、セル、雑誌)をお持ちであれば、編集部は喜んでお話をうかがいたい。守秘のご希望は尊重する。

SAKUGAART · 特集執筆:M. El Uasti
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